羅憲はどんな人?蜀滅亡後の戦争を戦った最後の忠臣の生涯を解説


 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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半年の包囲戦を耐え抜く

蜀滅亡後も旧蜀の永安城を守る羅憲

 

包囲から半年が経過し城内では栄養不足と不衛生な環境から疫病がまん延し、城内の半数の人々が感染します。ある人が羅憲に脱出を促しますが羅憲は「私は城主であり人民に仰ぎ見られる存在であらねばならぬ、危険だからといって民を見捨てて逃げるのは君子(くんし)のする事ではない」と拒否。

 

羅憲を抜けず撤退する陸抗

 

人民と共に玉砕する事を決意しますが、ここで魏から胡烈(これつ)が率いる援軍が到着。陸抗はやむなく陣を解いて退却し永安は解放されました。司馬昭は呉軍を退けた羅憲を高く評価し、元の巴東太守の地位を与え同時に陵江将軍に任命します。

 

羅憲の異常な忠誠心を評価した司馬昭

 

その頃、武陵郡(ぶりょうぐん)の四県が呉に叛いたので羅憲は武陵太守、巴東監軍になりました。羅憲は西鄂県侯(せいがくけんこう)に封じられ妻子を洛陽に住まわせ、子の羅襲(らしゅう)給事中(きゅうじちゅう)に任命されます。266年には洛陽に上り冠軍(かんぐん)将軍・仮節(かせつ)に昇進し、268年には陳寿をはじめ多くの蜀の旧臣を推挙しました。

 

蜀滅亡後 呉が攻めてきた事を根に持ち魏に帰順する羅憲(司馬昭)

 

羅憲が入朝したあとに呉の武陵太守孫恢が南浦に攻め込んできますが羅憲の参軍の楊宗がこれを討ち敗走させます。これにより羅憲は楊宗を武陵太守とするように上奏、任地に戻り南浦(なんぽ)に駐屯し武陵蛮(ぶりょうばん)を呼応させて三県とその民を得ました。呉の巫城(ふじょう)を攻略し、呉を討つ献策をしましたが泰始6年(270年)死去します。

 

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三国志と異民族

 

 

 

三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

羅憲は蜀滅亡後の戦争を戦う(まれ)な体験をした人物です。本来なら主君が降伏した以上は、城を守る義務もないのですが盟友だと信じた呉の非情な措置に憤慨し圧倒的に不利な状態で戦い抜く離れ業を見せました。その能力は司馬昭の目に留まり、羅憲のみならず多くの旧蜀臣が晋で登用されるきっかけにもなりました。

 

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佞臣

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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