羅憲はどんな人?蜀滅亡後の戦争を戦った最後の忠臣の生涯を解説


 

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羅憲

 

羅憲(らけん)は蜀漢に仕え後に西晋(せいしん)に仕えた軍人です。

 

蜀滅亡後も旧蜀の永安城を守る羅憲

 

 

蜀漢にも姜維(きょうい)魏延(ぎえん)王平(おうへい)のような名将はいますが羅憲は一風変わった経歴を持ちます。羅憲は蜀が滅亡した後に呉を相手に奮戦した名将でした。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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荊州襄陽出身の羅憲

後継者をまだ決めれない劉表

 

羅憲は荊州襄陽郡(けいしゅうじょうようぐん)の出身で父の羅式(らしき)は戦乱を避けて蜀に移住したとあります。荊州動乱の時期は、劉表が荊州に赴任する189年以前か曹操に荊州が征服された西暦208年でしょう。羅憲は没年が270年で生年が不明ですが、200年前後に誕生したと考えると曹操により荊州が陥落した208年が近いのかも知れません。

劉備とともに呉を攻めまくる馮習

 

それはつまり羅式が諸葛亮や馬良(ばりょう)馬謖(ばしょく)のような襄陽組に属して劉備と共に江夏に逃れ、赤壁後に蜀入りを果たした一派である事を示唆しています。羅式は流れ者にもかかわらず広漢太守(こうかんたいしゅ)になっているので、劉備に近しい占領軍の一員の可能性が高いでしょう。

 

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三国志主要人物の出身地図

 

 

 

劉禅の部下として出世する羅憲

司馬昭の質問に回答する劉禅

 

羅憲は13歳にして文章をよく書き学問で名を知られるようになります。その後は礁周(しょうしゅう)の弟子になり、仲間からは孔子の弟子で最も出来がよい子貢(しこう)の如しと称えられました。

 

外交官でもあり、財神にもなった子貢

 

性格はまじめで積極的に人材を推挙し、財産を軽んじて人に施し財産を殖やそうとしなかったそうです。利殖(りしょく)をしないという点は子貢とは違いますね。成人すると劉禅の太子舎人(たいししゃじん)になり、つぎに尚書吏部郎(しょうしょりぶろう)に異動、呉に使いに出る事2回で呉人に才能を称賛されました。

 

太子舎人は、皇太子の警備や雑用役でさして高い地位ではありませんが、次期皇帝とコネを造るには絶好のポジションで、上級貴族の子弟が任命されますから、羅憲がエリートである事がうかがえます。呉に使いに出る事2回というのも将来的には外交官として呉と折衝する事を期待されていたのでしょう。

 

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永安の戦い

 

 

黄皓に疎まれ左遷?

黄皓と対立し左遷された羅憲

 

だだ真面目な人だったことが災いし、当時、ほとんどの蜀の役人が宦官の黄皓におべっかを使っているところを羅憲は迎合しなかったので黄皓の恨みを買い、辺境の巴東太守(はとうたいしゅ)に異動、巴東都督閻宇の副将になります。ちょっとすると左遷に見えますが、実は閻宇(えんう)が巴東都督になったのは呉の朱績の要請であり、魏をけん制するためでした。

 

姜維の地位を落とす文官

 

また閻宇は諸葛瞻(しょかつせん)董厥(とうけつ)同様に姜維の北伐に反対し黄皓と仲が良いのです。黄皓が、わざわざお気に入りが統治するポストに嫌いなヤツを送り込むとも思えず、この人事は左遷じゃなく羅憲の才能を買っての抜擢かも知れません。さらには、この時巴東に異動になった事で羅憲の名前は歴史に残る事になります。

 

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蜀漢滅亡

鍾会

 

西暦263年大事件が起きます。魏の鍾会(しょうかい)鄧艾(とうがい)が蜀に攻め込んできたのです。この時、都督の閻宇は成都に召喚され羅憲が永安を守る事になりました。

降伏する劉禅

 

しかし間もなく成都が鄧艾により陥落し劉禅は降伏したという噂が永安に届きます。永安では大混乱が起こり城を捨てて逃げる官吏が多発しました。

 

真っ二つにされる魏続(ぎぞく)兵士

 

羅憲は逃げる官吏を「デマをまいて民心を惑わした」として殺害し民心を安定させます。やがて劉禅が降伏した事実が伝わると羅憲は配下の将兵を引き連れて都亭に赴き3日間の喪に服しました。

 

 

え?先に殺された官吏は?と思いますが、あの時は降伏が正式情報ではなかったんでしょうね、多分…事実でも発表するタイミングでは、こうなる事もあります。

 

本当なら、これで羅憲の仕事は終わりのはずですが、そうはなりませんでした。

 

蜀が滅び、ちゃっかり蜀の領土を奪おうとする孫休

 

呉の孫休(そんきゅう)は蜀が滅亡したと知るとどさくさで永安を落とそうと盛憲に軍勢を与えて長江を遡上してきたのです。

 

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蜀漢の滅亡

 

 

羅憲、侵略者呉との戦いを決意

呉軍を撤退させた羅憲

 

最初、盛憲は援軍を装っていながら、永安に近づくと侵略者の本性をむき出しにします。これには羅憲が怒りました。

 

「漢と呉は(くちびる)と歯の関係であるのに、危機を救うどころか火事場泥棒に来るとは、もはや呉の命運も見えた」そして、こんな卑怯者に降伏するくらいなら晋についたほうがいいと巴東郡、永安の要塞を堅守します。

 

蜀滅亡後も呉の来襲に旧蜀軍を奮起させる羅憲

 

永安の兵士は、すでに蜀も滅んでいるのにどうして戦うのかと茫然自失(ぼうぜんじしつ)でしたが羅憲は、自ら鎧を(つくろ)い城壁を修復し兵糧を集め「国が滅んでも全うすべき節義はある」と説いたので、兵士は奮い立ち命令に従いました。

 

羅憲にとって悪い事は続きます。

 

囚人護送車に乗せられドナドナ状態のトウ艾(鄧艾)とトウ忠(鄧忠)

 

成都を落とした鄧艾(とうがい)鍾会(しょうかい)の策謀で洛陽に護送され、鍾会もまた姜維(きょうい)と組んで謀反を企らみ衛瓘(えいかん)に討たれたのです。鄧艾も帰還途中に衛瓘が出した刺客の田続に殺害され蜀から有力な将軍が全員消滅しました。

 

田続をけしかけて鄧艾と鄧忠を殺害する衛瓘

 

孫休はこれをチャンスととらえ、さらに撫軍(ぶぐん)将軍の歩協(ほきょう)を増援させます。羅憲は永安から討って出て長江の対岸から矢を放って渡河を阻止しようとしますが多勢に無勢で防ぎきれず、参軍の楊宗(ようそう)に蜀からの印綬と息子を託して包囲を突破させ晋への降伏を表明し同時に援軍を要請します。

 

呉を討つ策を何度も進言し晋の呉攻略に貢献した晩年の羅憲

 

同時に歩協が野戦を仕掛けると羅憲は撃破しました。楽勝できると思っていた孫休は怒り、鎮軍将軍の陸抗(りくこう)、征西将軍留平(りゅうへい)、建平太守の盛曼(せいまん)に3万の大軍を与えて永安城を包囲させます。

陸抗 vs 羅憲

 

羅憲に預けられた正規兵は2000人でこれ以上はどうしようもなく、籠城し魏からの援軍の到着を待つ事になりました。

 

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鍾会の乱

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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