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呂壱(呂壹)の最期
そうして牢に繋がれた呂壱の取り調べを行ったのが、嘗て呂壱が罪に陥れた顧雍です。しかし顧雍は孫呉の人物には珍しく穏やかな性格と表情のまま、呂壱に申し開きをさせました。
そして呂壱はその取り調べに、ただ地に頭を付けたままで何も言えないままだったと言います。その姿に人々は彼を罵り、もっときつい取り調べを行うべきと言いましたが、顧雍は法に外れたことはしてはならないとしてそれを制しました。
後、法に従って呂壱は処刑されたと言います。
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呂壱(呂壹)の人となり
断片的な記録ではありますが、これらの記録から呂壱の性格が何となく察することができます。まず些細なことでも罪に問う、権力者であっても遠慮しない、これらの件から、呂壱はかつてはもしかしたら「善」の立場に立った人物であったことでしょう。
しかしそれが冤罪でも声高に叫ぶ所があり、また後には自らの権力で専売を行うなど、孫権の寵愛を得てからはやりたい放題な面も見られます。おそらくかつては孫権が気に入るような、好漢であったのでしょう。ただし、呂壱事件を引き起こしたことからも分かるように、孫権が期待するほどの能力を持っていた人物ではなかったと思われます。
その一方でどこか実直過ぎた性格からか、些細な罪でも冤罪であっても必死に裁こうとしたのかもしれません。寵愛故に、能力以上のことを期待された人物の顛末……と言えなくもないでしょう。
ただ最期の顧雍への態度を見るに、自分がしでかしたことの大きさは分かっていたのか、と思いました。良くある悪代官のような振る舞いをした人物、それは裏を返せば、ただの等身大の人であったことの証なのかもしれません。
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三国志ライター センのひとりごと
呂壱事件が引き起こした最大の弊害は、晩年の呉にあって孫権と部下たちとの溝を作ってしまったことにあると思います。
この後、潘シュンは亡くなり、後始末をやり遂げた諸葛瑾もこの世を去りました。そうして残された呉は、急速に終焉に向かいます。
呂壱の有様は、ただこれからの呉にはこの後やってくる巨大な「敵」に太刀打ちできるだけの力は残されていない、そんな風に思ってしまう悲痛さを……感じずにはいられないと思いました。
ちゃぽん。
参考文献:呉書呉主伝 潘シュン伝 陸遜伝 顧雍伝 歩シツ伝
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