「後漢」の歴史書「後漢書」の「東夷伝」にて、「建武中元二年(西暦57年)、倭の奴国の使者が後漢の光武帝の元に貢物をもって挨拶にきた。光武帝はその使者に金印を授けた。」と記載されています。
その事実については長らく謎に包まれていましたが、江戸時代にその「金印」が発見され、後漢書の記述が事実だと証明されたのです。では、どうして「倭の奴国」は漢に使いを送ったのでしょうか?
少ない文献から想像してみましょう。
この記事の目次
後漢書東夷伝の「倭奴国」についての記述
「倭奴国」についての記述はごくわずかで、どのような国だったのかはよくわかりません。しかし、「後漢書」によると「倭国は100国あまりあり、そのうち30か国ほどが漢に使者を送っていた。」と記述されていたことから、当時の日本が中国に使者を送ったのは珍しいことではなかったと考えられます。
しかし「倭奴国」が「金印」を授けられたことが特別に記載されていることから、この国が倭国の中でも特別なポジションを持っていたのかもしれません。
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贈られた「金印」とは?
贈られた金印には「漢委奴國王」と刻まれています。その読みかたは諸説ありますが「漢の倭の奴国の国王」と読まれるのが有力です。「委」は「倭」を省略したものだと考えられています。この金印は西暦1784年に現在の福岡県志賀島にて、農民が水田の作業中に発見したと言われています。
儒学者が鑑定したところ、「後漢書」に記載されている金印だ、という結論に至ったようです。ただ、周辺では倭奴国に関する他の出土品がなく、発見の経緯もあいまいなため、「偽造説」を唱える人もいます。
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倭奴国が漢に使いを送った理由は?
なぜ、倭奴国は漢に使いを送ったのでしょうか?「後漢書」によると、当時の倭国は100国以上の国で構成され、一番大きな国が「邪馬台国」だったようです。どうやら邪馬台国がすべてを支配しているわけではなく、当時の倭国は多くの国が乱立していたようです。
その中で「30国あまりが漢に使者を送っていた」と記載されていたことから、当時の倭国では少しでも大国「漢」の威光を自国の利益につなげようと「外交合戦」がおこなわれていた、と想像しています。
外交合戦が行われる中で「倭奴国」が金印を授けられた、とわざわざ記載されているということは「倭奴国」が何か特別な存在だったのかもしれません。貢物が他とは違ったのか、倭国の中でも大きな勢力だったのか、真相はわかりません。
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倭奴国はどこだったのか?
倭奴国は現在の日本のどこに存在していたのでしょうか?
「後漢書」によると「倭の奴国は一番南の地である」と記載されています。しかし、漢が倭国の地理をどの程度把握していたのかは不明ですので、これだけでは奴国の位置を探ることはできません。
前述の金印は現在の「福岡県福岡市志賀島」という場所から江戸時代に発見されました。そのため奴国の位置はこの周辺だとは推定されますが、金印発見場所周辺からは奴国に関するようなものは特に発見されておらず、奴国の位置を確定するには難しいです。
しかし、奴国が九州北部に存在していたことはかなり有力だと考えられます。
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その後の倭奴国
「後漢書」には「安帝の永初元年(107年)倭国王“師升”らは奴隷を献上して皇帝への謁見を求めた。」と記載されています。この「倭国」が前述の「奴国」なのか、その後に記載される「邪馬台国」なのかはわかりません。
ちなみに「師升」という人物は中国の史書においてはじめて日本人の名前が記載されたという人物です。しかし、これもまた誰なのかはわかっておりません。「後漢書」や「三国志」(魏志倭人伝)には「邪馬台国」と対立する国家として「狗奴国」が登場しますが、こちらも位置が確定していません。「倭奴国」については記載がわずかで、わかることは限られておりますので、今後の研究に期待しましょう。
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中国の史書で言及された「倭奴国」
「三国志」以後の中国の史書では「倭奴国」について少しだけ言及されています。「旧唐書」「新唐書」「宋史」「元史」それぞれにおいて「日本国は史書に書かれている倭の奴国なり。」と記載されており、中国では後漢の時代に朝貢した「倭奴国」がその後の「日本」になった、と考えていたことがわかります。
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三国志ライターみうらの独り言
中国の史書を読んでみると、古代から中国との往来は結構頻繁だったことがわかりますね。ただ、今とは航海技術もまったく違うでしょうから、大陸に渡るのはかなりの苦難を伴ったと考えられますね。それほど中国との交流が大事だったということでしょう。
なお、今回の記事に書くにあたり「倭国伝」(講談社学術文庫)を参考にしました。これは中国の史書に書かれた日本の記事についてまとめられており、大変便利で面白いのでおススメです。
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