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この記事の目次
司馬昭、ことわざになる「司馬昭之心、路人皆知也」
司馬昭は傀儡皇帝として「曹髦」を擁立していました。曹髦が皇帝になったのは幼いころでしたが、大人になってくるにつれ、司馬昭に思うがままにされている自分や国を不満に思うようになっていました。司馬昭は表向きは皇帝を敬っていますが、本心では皇帝を邪魔に思っていました。
曹髦はそれに気が付き「司馬昭の(皇位を狙う)心は路傍の人誰でも知っている。このまま排斥されるのは嫌だ。」と側近に打ち明けました。
この「司馬昭之心、路人皆知也」は中国で「権力を握ろうとする者の陰謀は誰でも知っている」という意味でことわざとして使われているようです。
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皇帝を殺してしまう
皇帝に気持ちを打ち明けられた側近は、司馬昭にそのことを漏らしてしまいます。すると追い込まれた皇帝は司馬昭打倒を掲げついに挙兵。しかし、あっという間に鎮圧され、皇帝は殺され、その手を下した武将も一族皆殺しにしてしまいます。
そして新皇帝を擁立し、司馬昭は魏の実権を完全に握ります。司馬昭の悪名はこの一連の流れにあるでしょう。
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蜀を滅ぼす司馬昭
混乱していた魏ですが、益州の蜀はそれ以上に混乱していました。これを察した司馬昭は「鍾会」や「鄧艾」を蜀征伐に派遣します。
鍾会は有能でしたが、人望が無く、あまり信用されておらず「鍾会は信頼できない、蜀に行かせてはならない」と進言するものもいました。しかし司馬昭は「蜀を滅ぼすのは簡単なのに、皆は無理だという。私と同じ考えなのは鍾会くらいだ。
もし鍾会が反乱を起こそうとしても、魏の将兵は故郷が恋しいだろうし、蜀の者は心服しないだろう。」と言いました。果たして鍾会はのちに蜀で反乱を起こしましたが、同調者は少なく、すぐに鎮圧されました。
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三国志ライターみうらの独り言
司馬昭は悪いイメージが強いですが、実は農民を重視したり、降伏したものを許すなど、意外と寛容だったことがわかりますね。敵対するものには過酷ですが、意外と人望のある人物だったのかもしれません。
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