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陳武の伝がとても短い
さて、このように孫権にちょっと深く愛された武将、陳武。もちろん彼自身の活躍はしっかりと伝に収まっています。が。
この伝、短い。孫権にここまでさせた武将なのに、蜀における孫乾や伊籍くらい短いのです。というか、実は陳武伝は陳武自身よりも彼の息子たちの記述の方が多いほど。まあ息子が優秀ということはお父さんにとっても良いことですけどね。という訳で陳武の優秀な二人の息子もご紹介しておきましょう。
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嫡子、陳修
さてまずは嫡子である陳修。彼は19歳の頃、孫権に召し出され、父である陳武と同じように自分に尽くしてくれと言われ、軍勢を率いさせられました。
当時は新兵は逃げ出す者も多かったそうですが、陳修は配下の武将たちの心を良く掴んでおり、逃亡兵は誰も出なかったと言います。陳武も孫策に出会ったのが18歳と思うと、何とも感慨深い話ですね。
しかし残念ながら、陳修は早逝してしまいます。ですが後にまた陳修の子が取り立てられた、と記録されていますね。
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庶子、陳表
陳武にはもう一人優秀な息子がいます、その名は陳表。彼もまた優秀でありながら、仁義に溢れた人物であり、部下としても、人を率いる立場としても優秀でした。孫権の子である孫登の学友に選ばれるほどでしたが、彼はあくまで父と同じく武人として働くことを選びます。
また人格者であったことも分かるのが、彼と彼の母の話です。異母兄である陳修が早逝すると、陳表の母親は陳武の正室のいうことを聞かなくなりました。陳表はこの母親を諫めたことで正室と母親の仲も改善され、陳表の評判が高くなったと言います。
後に身を弁えて家は異母兄の子に継がせるように頼むも、これは孫権に許されず。しかし呂壱事件の後に彼もまた早逝してしまい、陳修の遺児たちが取り立てられることになりました。陳武の人に好かれる好漢な性質は、子二人にしっかりと受け継がれていたということでしょう。
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三国志ライター センのひとりごと
陳武自身も人好きする好漢なのですが、伝を見直すと大体が息子たちの記述なんですね。筆者も不勉強なため、もっと多いと思っていたので改めて見直し、驚いた次第です。
しかしその伝を見てみると、彼の子供たちの優秀さについてしっかりと記録されてありました。これはこれでまた、陳武の優秀さが透けて見えるようで面白いですね。
ともあれ、陳武のその子たちの紹介でした。ちゃぽぽぽん。
参考文献:呉書 陳武伝
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