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漢字の祖先 甲骨文字
小屯村で出土した亀の腹甲や牛や鹿の肩甲骨には文字が刻まれていて、合計で五千字以上の文字が確認、そのうち千七百字ほどが解読されました。
またこの甲骨文字の研究で、殷王朝の存在が同時代資料を通じて確認され、この文字が現在使用される漢字の祖形であることも分かりました。甲骨文字こそが殷王朝の実在を裏付けたという事が言えます。
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殷を滅ぼした国 周
殷王朝を滅ぼしたのは周です。遺跡の出土品に記録された銘文によると周は、殷の外地に位置する衛星国の1つで、当初はあまり従順ではなかったらしく時に殷に征伐された記録もあります。
しかし、対立する一方で、殷王朝から周に命令を下した甲骨文や「周侯」と記された甲骨文も残され周は殷に服属していたことも分かります。
また、殷王の妃の名前に「婦周」という人物名があり、周は22代殷王武丁以降、殷へ服属すると当時に娘を殷王室に送り込んで親族となり殷王室の貴族として言語・文化・信仰を殷と同じくするようになったと推定されます。
周は初代の后稷から15代目の姫昌が王位を継ぐと非常に強くなり、ついには宗主国の殷から「西伯」の地位を受け、殷の西方面においての独断の武力行使を許されるようになります。
この姫昌と同時代の殷紂王は暴君だったため、殷王朝の諸侯は姫昌に頼って革命を期待しますが、姫昌はその期待には応えず病死、後を継いだ姫発が、紀元前1046年に牧野の戦いに勝利して紂王を滅ぼし、周王朝を建国し武王と名乗ります。
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殷王朝 最後の王 紂王
殷王朝の最後の王は30代の帝辛、紂王です。
国を滅ぼした紂王ですが暗君ではなく頭の回転が速く、議論も得意で力は猛獣を素手で殺すほどでした。しかし自分が優れているために臣下が馬鹿に見えてしまい諫言を受けても得意の弁舌で誤魔化してしまったそうです。
こうして、紂王は慢心していき「天王」を自称すると祭祀を怠り、重税を課して天下の宝物を自らの物にし、おべんちゃらを言う佞臣を重用。さらに戦争で手に入れた愛妾の妲己に溺れ、日夜宴会を開いてウヒョに耽り、また、妲己の言うことは何でも聞いて実行。
酒池肉林を楽しみ、諫言をする賢臣を炮烙のような残酷な刑罰で処刑しました。
また紂王は猜疑心が強くなり、諸侯で少しでも謀反の疑いがあるモノは殺し、乾肉や塩辛にしてしまうので身の危険を感じた諸侯は、周の武王をリーダーに反乱を起こし、紂王は戦争に敗れて殺害され殷は滅亡します。
ただ、これは周王朝が自分達の所業を正当化する為に紂王を暴君にしただけであり、甲骨文の記録によると紂王は、先代まで続いていた生贄を取りやめさせ、熱心に祭祀をおこなった名君だそうです。
殷墟には未使用の空の墳墓があり、これは紂王が入る予定だったと考えられ、この事は紂王がいつ死んでもおかしくない年齢に達していた事を裏付け、治世が安定していた様子が窺えます。一方で紂王は東方の征服に気を取られ、親戚になっていた周に対する警戒を解いた隙を突かれクーデターで滅ぼされたという説も有力であるようです。
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殷王朝の政治
後の中国王朝との共通点が多い殷ですが政治システムは独特でした。
殷王朝は世襲制を取らず、「甲」「乙」「丙」「丁」の4つの王族から持ち回りで王を選出し、さらに、「戊」「己」「庚」「辛」「壬」「癸」の6つの王族から中継ぎや妃を出させていたと考えられています。
しかし、非世襲であったのは初期で殷王朝の権力が強大化すると権力の集中が進められ、辛、丁、乙の3王族が王位を独占、事実上の世襲制になったのではないかとも考えられます。
実際、22代武丁以来の王墓8つは殷墟がある武官村一帯に集中して存在し、この8名が血縁的に近い世襲王だった可能性もあります。
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