この記事の目次
膨大な生贄を必要とする神権政治
現代の考古学調査によると、殷王朝は占いによって政治をしていました。これを神権政治と言います。しかし、殷の神権政治は多数の人間の生贄を必要とするものでした。
後年になればなるほど生贄は増えていき、発掘により少なくとも14000人が生贄とされたと見られます。これは当時の人口を考えても異常な人数です。
さらに殷王朝は、この生贄を調達する為に他部族から人間の献上を強要しました。このような恐怖政治が他の多くの部族の反感を買い、やがて、周や微など東西南北の従属国が連携し、紂王が東夷の征伐に乗り出した隙をついてクーデターを起こし牧野の戦いで殷軍を撃破し殷は滅びたようです。
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殷王朝の青銅器
青銅器は殷時代に数多く製作されました。殷の青銅器は周の時代のそれに比較しても大きくて重厚です。殷の青銅器デザインで一番特徴的なのが饕餮文です。
「饕餮」というのは中国神話に登場する怪物で大きな口、誇張された目、曲がった角や虎の牙を持つ怪物です。中国の青銅器には饕餮の口や目、角や牙がいたる所に張り巡らされ、独特の雰囲気を持っています。
元々、饕は「財を貪る」、餮は「食を貪る」という意味で饕餮は貪欲な怪物ですが、何でも食べるという事から転じて魔を喰らうとなり魔除けのシンボルとなりました。殷王朝では時間を経過するごとに青銅器に対する比重が大きくなり、祭祀ばかりではなく武具も青銅器で制作するようになります。
この徹底した青銅器へのこだわりは、次第に青銅器を簡素化していった周とは対照的で殷の青銅器の価値を高めています。
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殷王朝と日本の繋がりとは?
殷王朝と日本については直接の繋がりを見出す事は出来ません。殷王朝が栄えていた時代、日本は縄文の晩期で中国沿岸なら兎も角、内陸の殷王朝にまで使者を派遣して交流していたとは考えにくいからです。
しかし、殷滅亡後の周の時代である紀元前10世紀に倭人と呼ばれる人々が周成王に暢(ウコン)を献上したとする記述が後漢の王充の著書「論衡」に登場します。
ただ、この倭人はそのまま日本人を示すのではなく、現在の中国の雲南省に住んでいた人々で、この倭人が海を渡って日本に土着し日本人の祖になったという事のようです。
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殷王朝の戦車
殷王朝の軍隊は、それぞれの氏族で構成された貴族を主体とした軍隊でした。彼らは殷王の召集を受けると氏族の構成員が農具を武具に持ち替えて軍を編制し、それぞれの部隊の指揮官は氏族を率いる貴族が勤めました。
初期の殷王朝は歩兵を中心とした軍隊でしたが、戦争に勝利して領土を広げると兵種と戦法、軍備に改良が加えられ戦車と歩兵をミックスさせた編成になりました。戦車が活用されたのは黄河下流域や中原など、平坦な土地が多かったためで人が走り回るよりも戦車の機動力が有利になったからです。
殷王朝が一度に出撃させた戦車は300両にもなり、これを左軍、右軍、中軍の3つに分けそれぞれが連携して戦う事でライバル国を次々と撃ち破りました。1輌の戦車には3人の兵士が乗り込み、左側の兵士が弓を右側の兵士が矛や戈を持ち、中央の兵士が馬を操りました。
戦車戦では御者を倒せば勝敗が決定するので、御者を戦車からひきずり落す戈と呼ばれる鉤爪の戟が開発されますが、同時に御者も初期から全身を革の鎧で覆い、頭には青銅製の兜を被るなど重武装でした。
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世界史ライターkawausoの独り言
今回は中国最初の王朝、殷王朝について解説しました。
黄河流域に誕生した殷王朝は漢字のルーツである甲骨文字を産みだし、優れた青銅器文明を発展させる文化的な一面を持つ反面、非常に好戦的で敵の都市を破壊し、敵兵の手足を斬り刻み、頭蓋骨を陥没させるなど残虐な王朝でもありました。
また占いで全てを決める神権政治を採用していましたが、その生贄として分かっているだけで14000人もの人間を犠牲にするなど周辺諸国に恐れられ、遂に30代、紂王の時代に滅亡に追い込まれてしまったのです。
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