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遣唐使は、なぜ朝鮮半島の近くを行けなかったのか?

2022年9月14日


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遣唐船(奈良時代)

 

こんにちは。古代史ライターのコーノヒロです。今回は、「遣唐使(けんとうし)」の経路から、古代の東アジア情勢について考えてみる、という内容のお話です。どうぞお付き合いください。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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遣唐使は、あえて荒海を通っていたの?

西遊記巻物 書物_書類

 

日本の奈良時代から平安時代初期に、中国大陸の「唐王朝(とうおうちょう)(唐帝国)」への使節団が、計15回も派遣されたという歴史事実があります。(※実際に渡航した回数としては15回とする説が有力です。)

 

これが有名な「遣唐使」ですが、この史実を聴くたびに、ある疑問が浮かぶことがありました。それは「使節団の経路」についてです。

 

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使節団の経路

 

主な経路として取り上げられるのは、東シナ海経由で日本と中国大陸を往来した例です。つまり、大まかに書きますと、九州・太宰府(だざいふ)→ 東シナ海 →明州(めいしゅう)(現・寧波市(ねいはし)。上海の南)→唐の都・長安(ちょうあん)(現・西安(せいあん))という経路です。

 

つまり、その道中は、東シナ海の荒海を通らねばならず、使節たちは、命がけで往復せねばならなかったのです。道中、漂流し、辿り着くことができず、出発地に戻らねばならなかったという話を幾度も聴きました。

 

例えば、遣唐使として日本から唐へ渡った「阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)」。そして、唐から日本へ渡来した「鑑真(がんじん)」。

 

双方、その道中、船が漂流し、目的地に辿り着くことができない経験を幾度もしたと伝わっています。結局、阿倍仲麻呂は中国大陸へ渡ることはできましたが、日本へ帰国できずに、彼の地で亡くなったという事実があります。

 

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実は、遣唐使の経路は2ルートあった

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しかし、その遣唐使の経路は、いずれも「南路」と呼ばれるものです。実は、もう一つ「北路」と呼ばれる遣唐使の経路がありました。これは、朝鮮半島に沿って北上し、「黄海(こうかい)」を抜けて、大陸の「山東半島(さんとうはんとう)」に上陸する経路です。

 

主に飛鳥時代(あすかじだい)と言われる時代特に630年頃?660年頃の初期の遣唐使は、この北路を使っていたようなのです。そして、そちらの方が荒海にのまれる確率が低く、安全な経路だったはずなのです。

 

では、なぜ危険な経路へと変更されたのか?

 

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新羅との対立

洛陽城

 

説明していきましょう。これには、当時の朝鮮半島情勢が深く関与しています。率直に言えば、当時の朝鮮半島の覇者であった「新羅(しらぎ)」と、日本は友好関係を築いていなかったようなのです。

 

なぜでしょうか?

 

斉明天皇と海で取っ組み合いをする武則天(白村江の戦い)

 

そもそもは、663年に勃発した「白村江(はくすきのえ)の戦い」に遡ります。それは、朝鮮半島の勢力争いに日本も参加した形の戦争でした。

 

朝鮮半島では、その数年前まで

高句麗(こうくり)

百済(くだら)

「新羅」

これら三国が相争う、「三国時代」でした。

 

しかし、新羅が唐帝国の協力を得て、百済を滅亡させる(660年)と、百済の残存勢力は日本を頼り、日本は新羅と敵対することになります。一方の新羅は再度、唐帝国の協力を得ます。

 

「日本・旧百済の連合軍」

VS

「新羅・唐帝国の連合軍」

 

この両者が、朝鮮半島の白村江(現在は「錦江」)にて激突しました。結果、大唐帝国の味方を得た新羅が、日本と百済の連合軍を僅か2日で打ち破ったのです。

 

ところが、その数年後、今度は、新羅と唐の間に対立が生まれます。すると、新羅は日本に使節を送り、近付きます。ただ、それは友好とまでは言えない、互いが争わなくても済むように距離感を保つような関係だったように思えます。それ以来、日本と新羅の関係は複雑になります。

 

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高句麗の復活

 

しかし、その複雑な関係が、一気に冷え切る事態が幾つか起きてくるのです。例えば、朝鮮半島北東部の「高句麗」の滅亡後、その遺臣(いしん)たちを移民として日本国内にて迎えている事実もあるのです(716年頃)。

 

(「武蔵国(むさしのくに)」に「高麗(こま)郡」と名のついた地域がありました。現在の埼玉県の日高市・鶴ヶ島市近辺なのですが、そこが移住地として許可されたようなのです現在も埼玉県日高市には「高麗駅」、「高麗川」と、名残の地名があります。)

 

すると、新羅の敵であった、高句麗の遺民たちを日本は受け入れたのですから、関係が冷え切るのは自然な流れだと考えられます。

 

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新たな争いの火種「渤海国」の登場

 

さらに追い打ちをかけたのは、8世紀初頭、旧高句麗領の地域に、高句麗の遺臣たちによる「渤海国(ぼっかいこく)」が建国されたことです。すると、渤海国と新羅との間に緊張が走ります。新羅は、唐との友好を求め、臣従の姿勢を示します。

 

渤海国は、唐に臣従の姿勢を示しながら、日本にも友好を求めるのです。東アジアの雄の大唐帝国を後ろ盾に、新羅VS渤海国の構図が浮かび上がります。そこに日本が加わったような形になりました。

 

日本は、渤海国との友好関係が深かったようにも見えます。約200年の間に約30回以上もの使節団の往来があったのです。比べて、日本と新羅との関係は、渤海国建国以降は、特に関係が冷え切っていったようです。

 

大和朝廷を建国したカムヤマト

 

つまり、当時の、大和朝廷(やまとちょうてい)の日本と新羅朝の朝鮮半島は、睨み合うような関係だったため、日本からの遣唐使が、朝鮮半島の近海を通ることは難しかったと考えられます。

 

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大和朝廷

 

 

大仏建立が導いた光明の兆し

水月観音像(仏像)

 

しかし、日本と新羅の間で、交流が途絶えた訳ではなかったのです。日本の東大寺(とうだいじ)大仏開眼供養(だいぶつかいげんくよう)(752年)のとき、新羅より使節団が太宰府(だざいふ)を経由し、都の「平城京(へいじょうきょう)」にやってきたことがありました。

 

しかも、その使節団には、新羅の王子であった「金泰廉(きんたいれん)」も加わっていたというのです。緊迫している関係の中、王子が訪問することは極めて異例でした。これも仏教の、お釈迦様(しゃかさま)のご加護か?とも思い巡らしたくなりますが、政治的な思惑が強く見え隠れします。

 

もしかしたら、渤海国と友好関係を持っていた日本を、渤海国から遠ざけ、同盟関係を築くことも想定していたかもしれません。とにかく、せっかくの日本と新羅の関係修復の機会でしたが、良い方向には進まなかったようです。

 

日本の大和朝廷側は、新羅の使節団に対して、友好関係を求めるというより、朝貢の態度を求めた、主従関係のようなものを求めたとも伝わっています。それにより、新羅の使節団は気分を害し、失念のまま帰国したようなのです。

 

この後、新羅が滅亡するまで、日本との間に、幾度か使節団の往来はあったようですが、良好関係を築くことはありませんでした。

 

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おわりに

編集長日記05 コーノさん、廉さん

 

同時に、日本から朝鮮半島の周辺を自由に往来できなかったことになるのです。

 

日本からだと、朝鮮半島は、九州から対馬を経由すると、とても距離的には近いのですが、まさに近くて遠い国だったのです。それでは、次回は、日本と友好関係を長く築いていたという「渤海国」について調べてお話したいと思います。

 

お楽しみに。

 

【主要参考文献】

・東京新聞

遣唐使船 21世紀に出港 最新考古学と沈没船参考に謎に挑み復元へ

2021年1月27日 付 記事より

 

 

・『東大寺のなりたち』

森本公誠(もりもとこうせい) 著・岩波新書)

 

・『遣唐使・その航海』

【神戸大学博物館研究年報(2011年)より】

(日本海事史学会・上田雄(うえだたけし) 著)

 

・『埼玉県日高市 公式WEBサイト

など

 

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コーノ・ヒロ

歴史好きのライターです。 福祉関係の仕事をしつつ、物書きの仕事も色々としています。 小説や詩なども、ときどき書いています。 よろしくお願いします。 好きな歴史人物 墨子、孫子、達磨、千利休、良寛、正岡子規、 モーツァルト、ドストエフスキー など 何か一言 歴史は、不動の物でなく、 時代の潮流に流される物であると思っています。 それと共に、多くの物語が生まれ、楽しませてくれます。

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