西暦でいう228年、諸葛亮孔明による有名な「北伐」が開始されます。
この第一次北伐に際して、蜀軍の先鋒という重大な役目を与えられたのが、馬謖という人物。
ところが、この先鋒である馬謖の軍が、街亭という土地で致命的な用兵ミスを犯し、早々に壊滅してしまうという事態が発生します。これを受けて蜀軍は撤退やむなしという判断に追い込まれ、第一次北伐は失敗しました。
ここで故事として有名な「泣いて馬謖を斬る」のエピソードが生まれます。この重大な責任をとらせるため、諸葛亮は馬謖を処刑したのです。しかしこの判断は、いまだに三国志ファンの間でも議論を呼びます。
もともと魏に対して劣勢だった蜀において、武将たちの人材と忠誠心は何よりも貴重だったはず。ここで馬謖を処刑せずに生かしておけば、その後の蜀の人材難や衰退は、なかったのではないか、と。
それでは、ひとつのイフ考察として、「馬謖をもし斬らなかったら、その後の歴史はどうなっていたか」を、今回は考えてみたいと思います。
この記事の目次
泣いて斬った側の諸葛亮の言い分は「綱紀粛正」
そもそも諸葛亮が「なぜ史実では馬謖を斬ったのか」の整理から始めたいと思います。
ところが実はこの事件の経緯、史実に近いとされている『正史三国志』でも、いまいち前後関係が明確ではありません。
ただ通説として伝えられているところで、かつ『三国志演義』にも継承されている背景としては、「事前の諸葛亮の作戦指示を守らず、かつ、実際に大量の兵を死なせた馬謖に対して、厳しい処断をしなければ蜀の軍紀に示しがつかない」という諸葛亮の判断があってのこと、とされています。
これは現代の基準から見ても、厳罰を与えた理由としては納得しやすいものかと思います。現代の軍事でも、命令違反は重罪です。
しかもその命令違反によってたくさんの死者が味方に出たとなれば、「責任者を厳正に処罰せよ」という声が高まるのは必至でしょう。
諸葛亮は、国内からの不満が出てくる前に、最高責任者として素早く馬謖を処刑することで、北伐失敗による混乱を最小限で抑え、かつ「命令違反は許さない」の示しをつけようと考えたのでしょう。
いわゆる、「綱紀粛正のため」というものです。ですが、ここでひとつ、あえて諸葛亮の判断にツッコミを入れることが可能です。
こちらもCHECK
-
泣いて斬ってる場合じゃない!全盛期の孔明ならやっていた筈の「正しい馬謖の使い方」
続きを見る
かつてのライバル曹操だったらどう判断していたか!
そう、三国志の時代は古代中国。同時代の英雄たちの中には、現代的な合理性では必ずしも測りきれない倫理観を持った、よくもわるくも強烈な個性が多々息づいていました。
「普通の考えからでは、ここは〇〇と処罰すべきである。だが俺はこうする!」というタイプのリーダーが多々いたのです。そもそも、諸葛亮のかつてのライバル、曹操がその代表格でした。
曹操の言動を見ていると、
・大敗北をして処刑覚悟で帰国した武将に対し、「戦いは時の運である、仕方あるまい」とふいに許すことがある
・そのいっぽうで、自軍に有利な寝返りをしてきた筈の功労者を「どうも信頼できない」と、とつぜん処刑することもある
・「鶏肋鶏肋」とひとりごとを呟いていた自分の言葉を拡大解釈した有能な部下を怒りにまかせ処刑している
などなど、ルールや整合性よりも、本人の直感で「許す」「許さない」を振り分けているところがありました。
これはまさに、中世イタリアのマキャベリ『君主論』に書かれていたような、「部下に恐れられるようなリーダーこそが乱世には向いている」という考え方そのものでしょう。
こちらもCHECK
-
【はじめての君主論】第1話:君主論ってなに?曹操とkawausoが解説するよ
続きを見る
諸葛亮がマキャベリズムに振り切れる覚悟があれば馬謖は生きていた?
諸葛亮も、このようなアクの強いリーダー達がしのぎを削る時代に生きていました。原則どおりに「綱紀粛正のための厳罰」という一本筋でなくても、よかったのではないか、とも思えるのです。
つまり、諸葛亮が馬謖を生かし続け、かつ人材として使い続ける手もあったと思います。かつてのライバル、曹操の真似をするのです。
大敗を喫してうなだれている馬謖に対し「蜀の人材が枯渇していることを考えると、お前は許す。そのかわり、死んだものと思って、第二次北伐では鬼神の如く働き、今回の恥を取り返す戦果をあげろ。そうしなければ次こそは殺す」と、諸将の前で厳しく詰め、命はとらない、というパターンです。
これをやれば、馬謖は命を助けられたことに感謝した上に、次こそは戦果を出そうと奮起することでしょう。それでは命令順守の厳しさが保てない?
そこについても曹操の真似をして、馬謖ではない別の、あまり有能ではない将軍を、突然つまらない理由で諸葛亮自ら手討ちにするのがよいでしょう。
「馬謖を赦したのに、他の者は殺した。丞相の考えは伺いしれない!」と諸将は大きくうろたえ、馬謖云々ではなく、諸葛亮の独裁に対する恐怖で蜀軍の秩序は保たれることでしょう。
こちらもCHECK
-
馬謖の山登りは王平が原因だった!陳寿が隠した真実?
続きを見る
まとめ:これをやると蜀のブランドは変わるが強国になったかも?
このシナリオで蜀を支配するのは、「馬謖を斬らずに使い続けよう。そのかわり、俺は部下たちに恐れられる鬼となろう」と腹をくくった、マキャベリストとしての諸葛亮です。
これは劉備玄徳という先帝の名声が積み上げてきたブランドからは劇的な変化でしょう。
命を助けられた馬謖や、武闘派の魏延あたりは、諸葛亮のこのような「奸雄」化にもついていくかもしれませんが、成都の官僚たちと諸葛亮との間には緊張関係が生じるかもしれません。
ただし、史実でもけっきょく諸葛亮は北伐に失敗し、蜀の衰退を防げなかったわけです。
こちらもCHECK
-
諸葛亮はなぜ祁山にこだわったの?祁山の戦いから戦略的価値を考察
続きを見る
【奇想天外な夢の共演が実現 はじめての架空戦記】
三国志ライターYASHIROの独り言
ここはいっそ、諸葛亮による独裁的な軍事国家への道を突き進んだほうが、強国にはなれたのではないか。などと思ってしまいます。
曹操の生き様が乗り移ったかのような独裁者諸葛亮。その子飼いの愛弟子として鬼神のように暴れる馬謖。
そんな二人が支配する蜀は、本来の三国志の蜀イメージとあまりにかけ離れますが、どうせ魏に史実でも魏に最期は負けたのですから、いっそのこと、この極端な「恐怖政治国家蜀」パターンのシナリオも見てみたかった、ような気もします。
こちらもCHECK
-
諸葛亮の死因は性格にあった?仕事を抱え込みすぎた背景を考察
続きを見る