夏侯惇と夏侯淵は魏(220年~265年)の将軍です。曹操が挙兵した当初から付き従った人物であり、魏の基礎を築き上げました。
今回は正史『三国志』から彼らの逸話について紹介いたします。
※記事中の歴史上の人物のセリフは、現代の人に分かりやすく翻訳しています。
世も末だぜ、夏侯惇
これは夏侯惇が陳留の太守をしていた時の話です。夏侯惇は宴会の席で計吏の衛臻を逮捕しました。衛臻が何か犯罪でもしたのでしょうか?
いや、どちらかと言うと冤罪です。
夏侯惇は宴会の席で部下たちに妻同伴で出席させることを命じました。
ところが衛臻は、「世も末だな・・・・・・」と呆れて怒った夏侯惇に逮捕されます。
「いまいち、よく分からない話だな?」と思う読者の皆様もいるかもしれません。
これは現代の人には分かりにくい感覚です。今では信じられないと思うでしょうけど、昔の中国では妻を人前に出すなんてスゴイ失礼なことでした。
簡単に言えば、素っ裸で人前に出すことに近いほど恥ずかしいことです。
「いや、冗談でしょう!」
冗談じゃなく本当!だから衛臻は、「世も末だな・・・・・・」とあきれていました。
呂布なんて自分の妻を劉備に挨拶させた時に、劉備は笑って誤魔化したけど内心では嫌な気分だったという話が残っています。
曹丕は部下に平気な顔で、甄皇后や郭皇后のスッピンを見せた話があります。
要するに夏侯惇や曹丕・呂布は昔の慣習が嫌いな型破りな人間・・・・・・もっと悪い言い方をすれば、アブノーマルな人間だったのです。
現代に生きていたら、絶対にyoutuberになって妻の顔を動画に挙げていたでしょう。
夏侯淵、臆病になれ
夏侯淵は夏侯惇と同じく曹操の挙兵当時から付き従った将軍でした。建安19年(214年)に夏侯淵は涼州で30年以上に渡り反乱軍を率いていた宋建をたった1度の戦闘で討ち取ります。
この功績により曹操から孔子が最も愛した弟子の顔回に例えられます。ただし、これは諸将に告げる便宜上のお褒めの言葉。
実際は夏侯淵個人には次のような注意を促していいます。
「指揮官というのは臆病にならなければいけない。勇気だけを頼みにするなよ。指揮官は当然、勇気は必要だが、行動に移す時は頭を使えよ。勇気だけに任せるのは1人の男を相手にする時だ」
しかし、夏侯淵は曹操のありがたい忠告を理解していなかったようです。
建安24年(219年)に劉備は曹操の領地である漢中を攻撃しました。
この時に漢中を守備していた人物は夏侯淵です。
蜀(221年~263年)の法正と劉備は夏侯淵の陣を奇襲します。夏侯淵は打って出たところを劉備に討たれてしまいます。結局、彼は曹操の忠告が理解出来なかったのでした。
後年に夏侯淵の息子の夏侯覇が蜀に亡命してきた時に、蜀の第2代皇帝の劉禅は面白いことを言っています。
「夏侯淵さんは、父の劉備が殺したわけではありません。戦場で討ち死にしたのです」
うーん・・・・・・確かに間違ってはいません。でも、詭弁ですね・・・・・・
三国志ライター 晃の独り言
以上が、夏侯惇と夏侯淵に関しての逸話でした。筆者は夏侯惇が目を矢で打ち抜かれて不自由になる逸話を高校生まで信じていたのです。
大学になって専門的に勉強してからウソだと分かってびっくりしました。余談ですけど史実の夏侯惇が顔を見るのが嫌で、鏡を見るのが嫌で鏡を割っていたという話はあり得ないようです。なぜなら、三国時代(220年~280年)の鏡は銅鏡だから割ることなんて出来ないらしいですよ。
※参考文献
・高島俊夫『三国志 「人物縦横断」』(初出1994年 のち『三国志 きらめく群像』ちくま学芸文庫 2000年に改題)
・山口久和『「三国志」の迷宮―儒教への反抗 有徳の仮面』(文春新書 1999年)
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