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夏侯惇と夏侯淵、2人の夏侯氏のエピソードを紹介![ネタ三国志]

2023年1月27日


 

曹操と夏侯惇

 

夏侯惇(かこうとん)夏侯淵(かこうえん)()(220年~265年)の将軍です。曹操(そうそう)が挙兵した当初から付き従った人物であり、魏の基礎を築き上げました。

 

今回は正史『三国志』から彼らの逸話について紹介いたします。

※記事中の歴史上の人物のセリフは、現代の人に分かりやすく翻訳しています。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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世も末だぜ、夏侯惇

夏侯惇

 

これは夏侯惇が陳留の太守をしていた時の話です。夏侯惇は宴会の席で計吏の衛臻(えいしん)を逮捕しました。衛臻が何か犯罪でもしたのでしょうか?

いや、どちらかと言うと冤罪です。

 

夏侯惇は宴会の席で部下たちに妻同伴で出席させることを命じました。

ところが衛臻は、「世も末だな・・・・・・」と呆れて怒った夏侯惇に逮捕されます。

 

「いまいち、よく分からない話だな?」と思う読者の皆様もいるかもしれません。

これは現代の人には分かりにくい感覚です。今では信じられないと思うでしょうけど、昔の中国では妻を人前に出すなんてスゴイ失礼なことでした。

 

簡単に言えば、素っ裸で人前に出すことに近いほど恥ずかしいことです。

 

「いや、冗談でしょう!」

 

冗談じゃなく本当!だから衛臻は、「世も末だな・・・・・・」とあきれていました。

 

呂布と劉備

 

呂布(りょふ)なんて自分の妻を劉備(りゅうび)に挨拶させた時に、劉備は笑って誤魔化したけど内心では嫌な気分だったという話が残っています。

 

甄氏(しんし)

 

曹丕は部下に平気な顔で、(しん)皇后や(かく)皇后のスッピンを見せた話があります。

 

夏侯惇

 

要するに夏侯惇や曹丕・呂布は昔の慣習が嫌いな型破りな人間・・・・・・もっと悪い言い方をすれば、アブノーマルな人間だったのです。

 

劉備と呂布

 

現代に生きていたら、絶対にyoutuberになって妻の顔を動画に挙げていたでしょう。

 

関連記事:夏侯惇の功績は戦よりも内政の方が大きい!?

 

 

夏侯淵、臆病になれ

曹操と夏侯惇

 

夏侯淵は夏侯惇と同じく曹操の挙兵当時から付き従った将軍でした。建安19年(214年)に夏侯淵は涼州(りょうしゅう
)
で30年以上に渡り反乱軍を率いていた宋建(そうけん)をたった1度の戦闘で討ち取ります。

 

ストイックすぎる仁徳者・顔回 顔回

 

この功績により曹操から孔子(こうし)が最も愛した弟子の顔回(がんかい)に例えられます。ただし、これは諸将に告げる便宜上のお褒めの言葉。

 

魏みんなで魏志倭人伝(夏侯惇、典偉、夏侯淵、許長、張遼、曹操)

 

実際は夏侯淵個人には次のような注意を促していいます。

 

「指揮官というのは臆病にならなければいけない。勇気だけを頼みにするなよ。指揮官は当然、勇気は必要だが、行動に移す時は頭を使えよ。勇気だけに任せるのは1人の男を相手にする時だ」

 

しかし、夏侯淵は曹操のありがたい忠告を理解していなかったようです。

 

二刀流の劉備

 

建安24年(219年)に劉備は曹操の領地である漢中を攻撃しました。

 

夏侯淵

 

この時に漢中を守備していた人物は夏侯淵です。

 

法正に敗れる夏侯淵

 

蜀(221年~263年)の法正(ほうせい)劉備りゅうび)は夏侯淵の陣を奇襲します。夏侯淵は打って出たところを劉備に討たれてしまいます。結局、彼は曹操の忠告が理解出来なかったのでした。

 

夏侯覇

 

後年に夏侯淵の息子の夏侯覇(かこうは)が蜀に亡命してきた時に、蜀の第2代皇帝の劉禅(りゅうぜん)は面白いことを言っています。

 

「夏侯淵さんは、父の劉備が殺したわけではありません。戦場で討ち死にしたのです」

 

うーん・・・・・・確かに間違ってはいません。でも、詭弁ですね・・・・・・

 

 

三国志ライター 晃の独り言

三国志ライター 晃

 

以上が、夏侯惇と夏侯淵に関しての逸話でした。筆者は夏侯惇が目を矢で打ち抜かれて不自由になる逸話を高校生まで信じていたのです。

 

夏侯惇

 

大学になって専門的に勉強してからウソだと分かってびっくりしました。余談ですけど史実の夏侯惇が顔を見るのが嫌で、鏡を見るのが嫌で鏡を割っていたという話はあり得ないようです。なぜなら、三国時代(220年~280年)の鏡は銅鏡だから割ることなんて出来ないらしいですよ。

 

※参考文献

・高島俊夫『三国志 「人物縦横断」』(初出1994年 のち『三国志 きらめく群像』ちくま学芸文庫 2000年に改題)

・山口久和『「三国志」の迷宮―儒教への反抗 有徳の仮面』(文春新書 1999年)

 

▼こちらもどうぞ

樊城の戦いに夏侯惇は来るはずだったの?夏侯惇の意外な一面を知る

 

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晃(あきら)

晃(あきら)

横山光輝の『三国志』を読んで中国史にはまり、大学では三国志を研究するはずだったのになぜか宋代(北宋・南宋)というマニアックな時代に手を染めて、好きになってしまった男です。悪人と呼ばれる政治家は大好きです。
         好きな歴史人物:
秦檜(しんかい)、韓侂冑(かんたくちゅう)、 史弥遠(しびえん)、賈似道(かじどう) ※南宋の専権宰相と呼ばれた4人です。
何か一言: なるべく面白い記事を書くように頑張ります。

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