何進が董卓を洛陽に呼んだ理由は[董卓の暴力]を使い妹の何皇太后をビビらせるためだった

2023年2月24日


董卓

 

辺境でくすぶっていた董卓(とうたく)をわざわざ都に呼び寄せ、後漢(ごかん)の寿命を大幅に縮めることになったのが、今回の主役である袁紹(えんしょう)何進(かしん)です。

 

晋蜀の産まれ 陳寿

 

しかし、陳寿(ちんじゅ)曰く「記録に残っている中でもっとも残忍かつ暴虐非道」と評される、暴君・董卓(とうたく)を呼び寄せたのには、2人なりの理由と読みがあったのです。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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袁紹・何進が董卓を呼んだ理由その1 「何太后への圧力」

袁紹が宦官を惨殺に行く

 

見出しにある通り知恵袋であった袁紹(えんしょう)の進言に従う形で、何進(かしん)が董卓をはじめとする地方の諸将を召し出したのは、異母妹の何太后かたいこう)をけん制するためですが、なぜそんな必要があったのでしょう。

 

宦官

 

当時朝廷では、蹇碩(けんせき
)
を筆頭とする宦官(かんがん)たちが霊帝(れいてい)の寵愛を立てに権力を独占しており、袁紹はもちろん大将軍である何進ですら、逆らうことができない情勢でした。

 

王族ボンビーから一転セレブ09 霊帝

 

転機が来たのは189年、宦官(かんがん)らを重用していた霊帝(れいてい)が崩御すると袁紹・何進は、王美人(おうびじん)との間に生まれた劉協(りゅうきょう)(後の献帝(けんてい))擁立をもくろむ、蹇碩一派に猛反発を開始。

 

何進

 

対抗馬・劉弁(りゅうべん)の生母、何太后の存在もあり何進を邪魔者と考えた蹇碩は、霊帝生母の甥である董重と結託し、何進抹殺を企てるも計画が漏れて失敗します。この抹殺計画失敗を機に、後継代理戦争は袁紹・何進側有利に進み、同年5月13代後漢皇帝の座に劉弁が就き、立場を失した蹇碩は逆に殺されてしまいます。

 

何進

 

これで一安心と袁紹&何進コンビは胸をなでおろしましたが、難産の果てに擁立した劉弁は先帝(せんてい)を上回る暗愚さをいかんなく発揮。

 

袁紹

 

宦官たちは、ますます我が物顔で朝廷内を闊歩する羽目になり事態を重く見た袁紹は、「蹇碩一派は排除できましたが、この際いっそのこと宦官すべてを一掃しましょう。」と進言しますが、イマイチ何進はいい顔をしません。

 

宦官たち 

 

なぜなら、平民に過ぎなかった何進が大将軍まで出世できたのは、ひとえに宦官の手引きで義妹が後宮入りし、霊帝の寵愛を受け皇后となったコネによるもの。

宦官たちに強く恩義を感じている何皇后から反対されるのは必定で、一掃作戦なんて始めると、下手をすれば自分の地位も危ないからです。

 

董卓(君主論)

 

煮え切らない何進を説得すべく、懐刀・袁紹がひねり出した策こそ、「董卓ら諸侯を都に集め、その兵力をバックに何太后へ圧力をかける」というもので、「それは名案!」と両手を売った何進は、さっそく使者を各所派遣したのです。

 

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袁紹・何進が董卓を呼んだ理由その2 「竇武・陳蕃の失敗」

宦官VS外威 三国志

 

中軍校尉に過ぎなかった袁紹はともかく、大将軍の地位にあった何進ならば、手持ちの軍勢だけで何太后の承諾を待たず、電撃的に宦官排除できそうなものですが、そう簡単にいかないのが宦官政治の恐ろしいところ。

 

宮廷内には宦官の情報網が隅々まで張り巡らされており、少しでも怪しい動きするとすぐに察知されてしまいます。そして、幼帝と太后を握る彼らによって「詔」というジョーカーを切られた場合、例え大将軍である何進であっても、たちまち逆賊として葬り去られるからです。

 

事実、168年に発生した宦官粛清計画の失敗は、竇太后の反対に実父で首謀者の竇武と、腹心である陳蕃(ちんはん
)
が逆らえなかったことによって、宦官粛清が一部にとどまったのが原因。なかなか粛清が進まない間に、スピーディーに動いた生き残りの宦官たちが太后を脅し、両者を逆賊とする「詔」を発布した結果、竇武(とうぶ
)
らは宮中の戦いで敢え無く敗死します。

 

袁紹と何進

つまり、袁紹と何進は太后の存在や力関係など、状況がよく似たこの宦官粛清失敗を教訓に、

 

  1. 外部勢力からの圧力で太后を翻意させ、宦官一斉粛清の承諾を得る。
  2. 宦官に切り札「詔」を切られ逆賊とされても、対抗できる兵力の確保。

 

という2つを目的に、地方の諸侯をかき集めたのです。歴史を知る我々にとっては、野心むき出しの董卓ら地方有力者が、おとなしく袁紹と何進の言いなりになるとは到底思えません。

 

しかし、少なくともこのおバカコンビはそう信じ、曹操らの反対を押し切って計画を実行、結果として稀代の暴君・董卓誕生に、一役買うこととなるのです。

 

 

三国志ライター 酒仙タヌキの独り言

酒仙タヌキ 三国志ライター free

 

さて、宦官粛清計画の首謀者である何進がその後どうなったかと言えば、緊迫する情勢を危惧し宮中への参内を控えるべき、との袁紹から忠告を軽視。慢心から無警戒に宮中へ参内した彼は、宦官が率いる兵に取り囲まれ、十常侍(じゅうじょうじ
)
張譲(ちょうじょう
)
に散々罵倒された挙句、諸侯(しょこう
)
が都へ到着する前に命を落とします。

 

袁紹と献帝と董卓

 

コネだけで成り上がった、何進らしい最期と言えばそれまでですが、袁紹・曹操・董卓らをはじめとする英傑たちが、雌雄を決する舞台を作ったと考えれば、

少しだけ評価してもいいかな~、なんて思うのは筆者だけでしょうか。

 

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酒仙タヌキ

小学生のころから司馬遼太郎を読み漁ってきた筋金入り、高校在学中に中国にホームステイしたころから雄大なその魅力に憑りつかれ、いまや晩酌と歴史をこよなく愛する立派な「中年歴男」に。 戦国・幕末はじめ三国志はもちろん、最近では韓流歴史ドラマにドはまり中、朝鮮王朝ロマンに浸りながら嫁タヌキの作るおつまみをつまむのが人生最高の喜び。 好きな歴史人物: 徳川慶喜、上杉鷹山、程昱、荀攸など、どっちかと言うと脇役好き。 何か一言: 歴史はそのまま政治・経済学であり、そして何より人生を豊かにしてくれる「哲学」と考えています。

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