五虎将軍の3番目、馬超。後漢末の群雄馬騰の息子として美丈夫であったと伝えられる彼ですが、曹操に叛いて一族を悉く殺害され涼州を失い、漢中で張魯の世話になる頃にはすっかり落ちぶれ、ついには楊白に害される事を恐れて劉備に降伏します。そして、この逃避行は本当に悲惨で、従兄弟の馬岱と2人だけだったようです。
側室の董氏と息子の馬秋、側近の龐徳まで捨てる
漢中で張魯の客将になっていた時、馬超には董氏という側室と馬秋という息子がいたようです。張魯は馬超との縁組を進めていたものの「あいつは父親を見殺しにしましたぜ」という家臣の事実の指摘を受けて、思い止まっている事から漢中で得た家族ではなく、冀城で皆殺しにされた馬超の家族の生き残りだったのかも知れません。
しかし、馬超は次第に張魯に疎んじられ、張魯の将である楊白に至っては馬超を殺害しようと計画したので馬超は側室の董氏と馬秋、さらに側近の龐徳まで捨てて、従兄弟の馬岱と逃走します。張魯が曹操に敗北した後、董氏は閻圃に与えられ馬秋は曹操に殺害されました。
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逃げたあと思案にくれる馬超
南に逃げた馬超と馬岱ですが、当初は劉備に投降するつもりではなかったようです。最初は劉璋と劉備の戦いの推移を見て、有利な方に就くつもりだったのかも知れません。そんな時、馬超に劉備が成都を包囲したという情報が届きます。これで馬超は劉備につく事を決めて、劉備に密書を出したのです。この決定は馬超の穏やかな晩年を約束したと言えるでしょう。
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オケラだった馬超
正史三国志馬超伝によると劉備は馬超の投降を喜び、馬超は兵を率いてただちに成都城下に至ったと描かれています。しかし、これは変でしょう。この描き方だと馬超には兵がいた事になってしまいます。
馬超伝を補う典略によると、劉備は馬超が投降してきた事を知ると「我は益州を得た」と大喜びしますが、そこで馬超を足止めしています。そして、ひそかに兵を与えたと描かれているのです。これは、劉備に投降した馬超が完全に着の身着のまま、従者は馬岱くらいしかいないオケラ状態であった事を示していると思われます。
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劉備のプロデュースでオケラ馬超が将軍に化ける
さすがに劉備は世間慣れしています。オケラの馬超が自分達に投降したのでは箔がつかないと思い、ひそかに兵を与えて馬超を一軍の将に仕立てあげたのです。そして馬超も劉備から借りた兵力を持って何食わぬ顔で成都の北を包囲しました。事情を知らない劉璋は、突如として北に出現した馬氏の旗に仰天します。張魯に身を寄せているハズの馬超がなんで劉備の軍に参加しているのかと動揺した事でしょう。そこに狙いすませて馬超が劉備に投降したと連絡が入ります。
劉璋は膝から崩れ落ち、もう抵抗するのは無理だと諦める事になります。劉備はオケラの馬超を一軍の将として飾り立てる事で劉璋への脅しを最大限にして成都を陥落させたのです。
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三国志ライターkawausoの独り言
馬超が劉備を頼ったのは有名ですが、馬超がどんな状態で劉備の下に転がり込んだのかは、そんなに詳細には書いていません。しかし、側室や息子を捨て、長年仕えていたホウ徳まで捨て、劉備が馬超を一度足止めして、ひそかに兵を与えて一軍に仕立てあげた顛末を見ると、ほとんど着の身着のまま、馬超の世話は馬岱がしていたんじゃないかとさえ思えてきます。
惨めな境遇まで落ちた馬超ですが、劉備は成都陥落に馬超が果たした役割を忘れず、大事にしました。自業自得とはいえ、ヒドイ後半生でしたが最後のクジだけは当たりくじだったと思いたいですね。
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