曹操・呂布に仕えた陳宮。曹操は陳宮の才能を認めており、呂布討伐戦後に捕虜になった陳宮を再び配下へ加えようとする程、彼を高く評価していました。
そんな陳宮ですが、もし董卓の配下として加わっていたら、どうなっていたのか。今回は三国志の歴史のIFストーリを考えてみたいと思います。
陳宮の得意分野は??
三国志を好きな方ならほとんど知っているであろう。呂布の軍師・陳宮。陳宮は何を得意とした人物だったのか。まずはそこから紹介したいと思います。陳宮の得意分野は弁舌です。
彼は曹操に仕えていた頃、兗州刺史・劉岱が青州黄巾賊に殺害された時、劉岱の配下達を説得。この結果、曹操は労せずして兗州刺史として迎えられることになります。また陳宮が呂布たちと手を組んで曹操に反旗を翻した事がありました。
この時陳宮は曹操の配下達を説得し、曹操が保有していた兗州の領土のほとんどを味方につけることに成功しています。上記で紹介した通り、陳宮は弁舌に優れた才能を持っていました。
更に「献帝春秋」によれば、陳宮は戦が起きた際、呂布へ戦術アドバイスをしていると記載されている事から、軍略面でも才能を持っていた事が分かります。そして陳宮は上記で紹介した得意分野から、軍師として力を発揮できた人物だったことが分かると思います。
謀略面も得意!?
陳宮は上記で紹介したほかにも優れた才能をもっていました。それは謀略面に優れていた事です。陳宮は曹操の配下達が治めている兗州のほとんどを奪ってから反乱を起こします。曹操は徐州へ遠征に出陣していた事もありますが、陳宮が反旗を翻すなど一切考えていませんでした。
また荀彧や程昱など曹操の軍師と呼べる人達にも気取られる事なく、反乱を成功させています。このことから陳宮が謀略面にも優れていたと言えるでしょう。
反董卓連合軍が大敗北!?
弁舌と軍略に優れた才能を持っていた陳宮。彼が董卓に仕えたら反董卓連合軍が大敗北し、崩壊していたかもしれません。反董卓連合軍は袁紹を盟主として結成され、先ほど紹介した劉岱や韓馥など多くの諸侯が加わった軍です。
だが連合軍は董卓軍と積極的に戦う事をしないで、毎日会議と言う名の酒盛りばかりをしていたと正史三国志武帝紀に記されています。そのため弁舌に優れた陳宮が諸侯を何人か説得して、反董卓連合軍から離脱させることに成功すれば、反董卓連合軍を戦う前から瓦解させる事もできます。
また陳宮が董卓へ「積極的に我が軍と戦ったのは曹操軍だけで、他の諸侯たちは連日連夜酒盛りばかりをしているそうです。そこで反董卓連合軍を真正面から戦うのではなく、各個撃破していけば、連合軍を崩壊させることができるでしょう。」などのアドバイスをしていたかもしれません。
このように陳宮一人が董卓へ加わるだけで、戦術としての幅が大きく拡大したのではないでしょうか。
董卓殺害がもっと早まった!?
王允は董卓暗殺計画を計画。王允は董卓の義理の息子・呂布を董卓暗殺計画に参加させることに成功した事がきっかけとなり、暴虐を尽くした董卓を殺害することに成功します。
だが陳宮が董卓の配下として加わっていれば、もっと早くに董卓殺害が出来たと思われます。陳宮は先ほど紹介したように弁舌と謀略を得意分野としていました。そのため陳宮は董卓へ不満を持っていた伍孚や董卓の横暴に我慢しきれなくなって反旗を翻した人々と協力して、董卓殺害をもっと早くにできたのではないでしょうか。
三国志ライター黒田レンの独り言
今回は陳宮が董卓の配下として加わった場合を紹介しました。もし董卓が陳宮を配下として加えていたらと考えてみるのも一興ではないでしょうか。さて現在三国志の展示会が上野で行われています。
夏休みの間、三国志にまつわる石碑や今年曹操の墓から発見されて話題を博した白磁などが展示されています。興味のある方は是非一度足を運んでみてはいかがでしょうか。
レンも一度見に行ってきましたが、かなり面白く新しい知識を発見できて勉強になりましたよ。
■参考文献 正史三国志魏書など
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