[荊州問題]劉備のわがままに隠された真相!

2023年4月16日


 

羅貫中

 

羅貫中(らかんちゅう)の「三国志演義(さんごくしえんぎ)」ではこれでもかというほど登場する「荊州(けいしゅう)」の二文。また、2019年9月6日には三国時代の荊州を舞台にした映画『SHADOW/影武者』も公開予定です。現代でも映画の題材にも取り上げられるほど魅力ある荊州の地。

 

関羽に無視される孫権

 

なぜ、三国時代に「荊州」が争いのポイントとなったのか現代の世界地図からはイメージしにくい点もあります。ここでは三国演義をベースに劉備(りゅうび)孫権(そんけん)の荊州争奪戦を紹介していきます。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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戦後処理

魏曹操と魏軍と呉軍

 

劉備・孫権連合軍が曹操軍に勝利した後、領地問題が発生したのが荊州です。孫権サイドは赤壁の戦いでのビクトリーは孫権軍が主体で、劉備軍はおまけ程度にしか考えていませんでした。しかし、劉備軍にしてみれば赤壁は荊州の東。

 

三国志の主人公の劉備

 

西にある蜀への帰り際に荊州をかっさらうなどお茶の子さいさいでした。そこで劉備は蜀を立て、ついでに荊州も統治したのです。ちなみに劉備が駐屯したのは南東にある「公安門(小東門)」。あの関羽は戦に勝つと「得勝街」をわざわざ通って凱旋したそうです。

 

勝ちを得る街、縁起をかつぐのは日本人だけでなく関羽も同じでした。

 

 

 

呂蒙の説得

劉備、孫権、魯粛

 

西暦215年。ついに孫権サイドが荊州の一部を返還するよう求めます。戦後のごたごたで奪い取られた土地を返すよう劉備に訴えたのです。いわば北方四島返還をロシア連邦に迫る日本の外務大臣のような心境。

 

劉備と孫権

 

意固地になった劉備は荊州をなかなか手放しません。ほどなく呂蒙は益陽まで進軍。数は1万ほどでした。

 

呂蒙

 

呂蒙(りょもう)は長沙と桂陽を降伏させましたが、零陵を守る「郝普」が抵抗。魯粛は罠を使って零陵を落としたのです。こうして荊州のうちの長沙・桂陽・零陵が武力によって掌握されました。

 

荊州の「州」とは国や国家という意味合いもあり、かなり広範なエリアを指します。現在の「荊州古城」は一つの小さな街ですが、三国時代の荊州は現在の湖北省と湖南省一帯を指していました。

 

 

曹操が漢中を奪う

曹操

 

そんな折、赤壁の戦いで潰走した曹操軍が「漢中(かんちゅう)」をターゲットに据えます。「漢中」とは名前の通り漢王朝の語源となった場所。その末裔である劉備が支配していないことから戦国時代であることが分かります。

 

曹操

 

また、漢中は南西の劉備がいる蜀へのルートにもなっています。ここを奪還すれば曹操軍は、いつでも蜀へと攻め入ることができるのです。

 

張魯

 

そこを守るのは張魯、いわゆる宗教家で「五斗米道(ごとべいどう
)
」というお米を敬う新興宗教の親玉でした。ところが鬼の曹操軍は陽平関(ようへいかん)で足止めに遭い、やむを得ず撤退を決意。

 

曹操に降伏する教祖・張魯

 

そこに偶然、100頭を超える鹿の群れが「張魯教団」を襲い、あっという間に壊滅。天の助けもあって曹操軍は漢中を手にし、引き上げるのでした。ここを足掛かりに蜀へと攻めようと進言する部下もいましたが、曹操は目的は達したと一蹴して帰還します。

 

 

劉備が孫権と親戚に

朝まで三国志 劉備

 

傍若無人にも荊州に居座っていた劉備ですが、曹操軍が漢中を取ったと耳にするとあたふたします。長沙・桂陽・零陵を呂蒙に取られ、北からも曹操軍が迫っている状況。孫権サイドと友好関係を結んでおかなければ国家そのものが崩壊する危機にありました。まさに日本海に「光明星4号」を発射する北朝鮮の一歩手前だったのです。

 

魯粛

 

一方の孫権は自分の妹(孫仁)を劉備に嫁がせ、義理の兄にアップグレードしています。その縁もあって魯粛は劉備との会談に成功。魯粛は「曹操が漢中を押さえた」ことを引き合いに出し、和睦を提案します。

 

そして、順当に南郡・武陵・長沙・桂陽・零陵の領有権を獲得。劉備は荊州の残りのほんの一部をもらうことで話しがついたのです。曹操は図らずも劉備と孫権の和睦のきっかけを作った形になりました。

 

三国志ライター上海くじらの独り言

三国志ライター 上海くじら

 

赤壁の戦いのどさくさに紛れて荊州に居座った劉備軍ですが、曹操軍の脅威には勝てませんでした。

 

魯粛の計略も素晴らしいですが、劉備が荊州の大半を孫権サイドに返還したのは曹操が怖かったからでしょう。それぐらい漢中は蜀へとつながる中継地点と重要でした。

 

中国大陸は東西に大河があるものの南北に大河はありません。また北京と杭州を結ぶ「京杭大運河」が三国時代にすでにありましたが、すべて開通したのは西暦610年(隋王朝)です。つまり曹操が南下するには陸路をいくしかないのです。

 

そのため、劉備にとって漢中を曹操に奪われることは焦眉之急だったのです。

 

参考文献:「三国演義(中国語版)」羅貫中、「交通旅遊中国地図冊(中国語版)」湖南地図出版社

 

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上海くじら

上海くじら

三国志との出会いは高校生の頃に読んだマンガの三国志。 上海留学中に『三国志演義』の原文を読む。 また、偶然出会った中国人と曹操について語り合ったことも……。 もちろんゲームの三国無双も大好きです。 好きな歴史人物: 曹操、クリストファー・コロンブス 何か一言: 覇道を以って中原を制す

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