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王戎の真実、ケチなのに最高位まで登りつめた秘訣とは?[人物探訪]

2023年7月14日


 

南蛮一の軍師・孟節(兵士を裏切る)

 

三国志の時代には名将と呼ばれる将軍や名軍師として活躍した人物だけでなく、色々な人が登場します。今回紹介する王戎(おうじゅう
)
は三国時代から晋の時代にかけて登場し、最高位の権力を手に入れた人です。

 

王戎

 

王戎は上記だけを見れば一見何の変哲もない有能な政治家だと思われますが、実はチョード級の変人でドけちな人だったのです。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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神青年で情の厚い名家出身の人

諸葛瑾

 

王戎は徐州琅邪郡出身の人です。この徐州琅邪郡からは蜀の丞相・諸葛孔明(しょかつこうめい)や、ロバのように顔の長いと孫権(そんけん)に悪口を言われた諸葛瑾(しょかつきん)など諸葛家の人々の出生地として知られています。また王戎はキングダムで活躍している王翦(おうせん)王賁(おうせん)親子の子孫で、徐州琅邪郡の王氏は名族として名声を得ていました。

 

この徐州琅邪郡の王氏からは王戎の他に東晋の政治家として有名な王導や、書家として名声を得た王羲之(おうぎし
)
など多くの優秀な人材を輩出しています。この徐州琅邪郡・王氏の一員である王戎は名族に相応しい優れた人でした。

 

曹叡

 

王戎は青年時代とっても優秀な人物で、魏の二代目皇帝曹叡(そうえい)に認められていたため、周りから「神童」として尊敬されていました。

 

 

 

魏王朝へ就職する王戎

魏王朝に就職せず詩をつくる王戎

 

王戎は曹叡に褒められながらも魏王朝に就職しませんでした。王戎は魏王朝に就職しないで何をしていたのでしょうか。

 

竹林の七賢

 

王戎は友人として慕っていた阮籍(げんせき
)
と一緒に詩を作ったり、酒を飲んで楽しんでいたそうです。

 

司馬昭

 

その後王戎は時の権力者・司馬昭(しばしょう)から招かれたため、魏王朝へ就職。魏王朝に仕えた王戎は河東太守や荊州刺史を歴任します。王戎は晋王朝の時代になると孫呉討伐戦に従軍して、晋王朝に平定された江東の人々の恨みを減らすため、施しを与え政治をしやすいようにしていたそうです。

 

三国志を統一した司馬炎

 

司馬炎(しばえん)は孫呉討伐戦で功績を残した王戎へ侯の位を与えます。このように王戎は司馬昭・司馬炎から信頼された事で要職を歴任することになりますが、政務にはほとんど興味を持っていなかったそうで、積極的に行政や国の政治にかかわる事をしなかったそうです。

 

 

HENJIN・王戎!!

どケチだった王戎

 

王戎は晋王朝で要職に就いた事で、お金持ちだったはずなのにチョーがつくほどドケチで変人でした。王戎がドケチだったエピソードがいっぱい残っていますので、いくつか紹介したいと思います。

 

王戎は甥っ子が結婚すると聞いて、一張羅の着物を用意して甥っ子へプレゼント。甥っ子は王戎からプレゼントされた着物を着て結婚式へ赴きます。王戎は結婚式が終わった後、甥っ子へ「こないだプレゼントした着物だけど、お金いつ払ってくれんの??」と常識のある人間なら絶対に言わない発言をサラッと甥っ子へ向けて言ってのけます。

 

甥っ子は王戎の発言を聞いて絶句していたそうです。また王戎は晋王朝の重職に就いていた裴頠へ娘を嫁がせますが、娘へいっぱいお金を渡して嫁がせます。他にも王戎は家に生えていたスモモを売ってお金を作っていました。

 

王戎はスモモを買った人が家でスモモを植えて増やさないようにするため、スモモの種に穴をあけて販売していました。王戎は上記で紹介したエピソードの他にもドケチエピソードがいっぱいあります。晋王朝の重職を歴任していた王戎はお金に困っていなかったにもかかわらず、とってもドケチでだったため、変人と見られていました。

 

 

三国志ライター黒田レンの独り言

三国志ライター黒田レン

 

王戎はドケチで変人でしたが孝行者でした。王戎は父親が亡くなったと知り、官職を辞職して郷里へ帰郷します。

 

王戎は父の喪に服するため、何も食べずに幾日も過ごしていた為、みるみるうちにやせ細っていったそうです。そのため同僚から「死孝」と呼ばれ、晋の皇帝・司馬炎からも王戎がやせ細っている様子を聞いて、心配して薬を送るほど激しく喪に服していたそうです。

 

変人でドケチな王戎ですが、親に対してはしっかりと親孝行する孝子でした。

 

■参考三国志武将辞典など

 

 

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黒田廉(くろだれん)

黒田廉(くろだれん)

三國志が大好きです。オススメのマンガは曹操を描いた蒼天航路がオススメです。三國志の小説のオススメは宮城谷昌光氏が書いた三國志です。好きな食べ物はマグロ、ぶり、アジが大好きな猫です。

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