夷陵の戦いと言えば蜀軍が呉軍に大敗北し、大きな損害を受けた戦いです。ではその大きな損害とは、一体どれくらいのものだったのでしょうか。
今回は蜀軍が受けた損害をまとめ、どれだけその損失が後々まで響くようになったかを説明したいと思います。
戦死した人たちとその損害
夷陵の戦いで一番大きかった被害と言えば、人的被害です。7名の将軍たちが戦死しただけでなく、6名が呉に降伏しています。
この6名というのは当時30代であった馬良を始め、殆どがまだまだ働き盛り、これからの蜀を率いていく存在となる人たちでした。
蜀と言えばこの時点で劉備は60代、しかも夷陵の戦いまでに関羽を始め、張飛、馬超、黄忠と言った名のある武将たちが既に亡くなっています。そのため後任が必要だったのですが、それをここで失ってしまったのです。
人的被害はそれだけではありません。将軍が亡くなっているということは、その部下も多くが死んでいるということ。
「斬首したり投降してきたりした者は数万にのぼった」「その死者は万を数えた」と明確な数は表記されてはいない者の、多くの人が亡くなっているのです。このことから、夷陵の戦いでの人的被害は凄まじいものであったと分かります。
荊州の奪還ならず
樊城の戦いで蜀は荊州を失いました。山奥に在る蜀が中原に出陣するには、引いては天下を取るべく戦うためには荊州の奪還は最重要とも言えます。しかし実際には夷陵の戦いで大敗北し、再びの荊州の奪還は不可能となってしまいました。
これは既に蜀が天下を争うための基盤を失ってしまったとも同義。それほどまでに蜀にとって荊州は大事な土地だったのです。実際に荊州を失ったのは夷陵の戦いの前の樊城の戦いですが、再戦が不能までに落ち込んでしまった夷陵の戦いでの敗北は、荊州奪還失敗という損害にも繋がると思います。
夷陵の戦いは、私的に起こされた戦争だった?
夷陵の戦いで敗北した劉備は何とか逃げ帰りますが、蜀まで帰還した訳ではありません。
その手前にある白帝城に戻って、蜀まで戻ることはなくそのまま亡くなります。これに対して劉備は実は既に死んでいたけど誤魔化した、などの色々な考察がありますが、筆者としては蜀に帰って民衆や残っていた将たちに合わす顔がなかったのではないかと思います。
夷陵の戦いの前に、劉備は漢皇帝を名乗ります。
魏皇帝の曹丕は禅譲ではなく、献帝を殺害して帝位を奪った、漢王朝復興のために曹丕と戦うという誓いを立てて皇帝となったのです。その皇帝となるまでには色々な思惑があったと思いますが、皇帝となった後でいきなり始めたのは魏との戦ではなく関羽の敵討、これは私的な戦いと言わざるを得ません。
皇帝権限を使って無理やり起こした夷陵の戦い、そこで大敗北、人的被害は限りなく、荊州の奪還もならず…これは、かなりの民衆の信頼を失ってしまった結果となったと思われます。憶測ですが民衆の信頼を失った、少なくとも劉備はもうそう考えていたとするなら、それもまた夷陵の戦いでの損害と言えるのではないでしょうか?
大きく爪痕を残した孫呉の虎たち
夷陵の戦いで、呉は勝ちました。この時の呉の指揮官は、陸遜。彼の凄さは、ここまでの多大なダメージ、大損害を蜀に与えたことにあります。
少し考えるなら、攻めてきた蜀を追い返すだけで十分だったのです。夷陵の地を守った、それだけでも十分な功績だと思います。しかし陸遜は違いました。
陸遜は蜀をわざと呉の奥深くまで進軍させ、大博打のような奇襲から一気にその勢力を根こそぎ削ったのです。そして蜀は、呉と戦う力を失くしました。このことは後の魏と呉の戦いである、三方面作戦でも大いに効果を発揮します。
陸遜がどこまでを見据えていたかは凡人である筆者に見通すことはできませんが、この戦いだけでなくその先の先まで見据えて、考えて戦ったならばやはり陸遜という武将は非凡な人物、陸遜伝が伝えられるだけの人物であると思います。
蜀としては皮肉なことに、夷陵の戦いで蜀の受けた損害は陸遜の非凡さもまた、後世に伝えているのです。
三国志ライター センの独り言
夷陵の戦いでは、蜀が大敗北しました。その敗北はとてつもなく大きなもので、蜀の力を根こそぎ奪ってしまったものとも言えます。
実際想像してみるだけでも、多大なダメージですよね。蜀の敗北の大きさを知ると共に、呉の強さを知ることのできる戦い、それが夷陵の戦いではないかと思います。
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