『三国志』ファン同士で会話をしているとどうにもかみ合わないことがある…ということは意外とよくありますよね。
そのかみ合わない話あるあるとしては関羽と関平の関係が挙げられるのではないでしょうか。関平は関羽の実子だと主張する人もいれば、関平は関羽の養子だと主張する人もいる…。
一体なぜこのような違いが生じるのでしょうか?
それはおそらく同じ『三国志』ファンを名乗っていても読んでいる『三国志』が異なるからでしょう。『三国志』と呼ばれるものはおおよそ陳寿が編んだ正史『三国志』と明代に編まれた小説の『三国志演義』の2種類に大別できます。
その正史『三国志』と『三国志演義』とで設定が異なっているのが関羽と関平の関係性なのです。そのため、正史『三国志』を読んでいる人と『三国志演義』を読んでいる人とで見解が対立するわけなのですね。
というわけで今回は正史『三国志』と『三国志演義』とで異なる関羽と関平の関係性について解説していきたいと思います。
正史『三国志』では関平は関羽の実子?
正当な歴史書とされている陳寿が編んだ『三国志』においては関羽と関平の関係について次のように記されています。
権遣将逆撃羽、斬羽及子平于臨沮。
(権将を遣りて羽を逆撃し、羽及び子の平を臨沮に斬る。)
「関羽とその子である関平」とあるため、文字通り素直に解釈するならば関羽と関平は実の親子関係にあると考えてよさそうです。
しかし、少しひねくれた解釈をすると「子」と記されてはいるものの「養子」の「養」などの字を省略しているだけで、関平は関羽の養子なのではないかと考えることもできるかもしれません。
銭静方という人物が編んだ『小説叢考』においては清代になって発見された関羽の墓碑らしきものを根拠に関平は関羽の実子であると断定されています。近代になってもなお関平と関羽の関係は議論の対象となっていたようですね。
『三国志演義』では関平は関羽の養子
正史『三国志』の記述をもってしても関羽と関平の関係を実の親子であると断定できないのは『三国志演義』が存在しているからでしょう。『三国志演義』では関羽と関平は実の親子ではありません。
曹操に盾突いて散り散りになってしまった劉備・関羽・張飛の桃園三兄弟が感動の再会を果たした屋敷の主人から同じ苗字ということで同族のよしみとしてぜひ息子を関羽の養子にしてくれと頼まれて登場したのが関平でした。
このように、はっきりと関平が関羽を養子にする場面が描かれているので、『三国志演義』では関平は間違いなく関羽の養子であると考えられます。一方、正史『三国志』には関羽が関平という子をもうけたことなど書かれていませんし、『三国志演義』のように関羽が関平を養子にしたという描写もありません。
このような有様ですからしっかり描写されている『三国志演義』の方を信用したくなるものですよね。また、古い歴史書というものは書き伝えられていくうちに文字の異同が生じてしまうものです。
そのため、余計に正史『三国志』と『三国志演義』とではどちらが正しいのかわからなくなってしまうのでしょう。
関羽の血脈は孫の代まで続いた
ちなみに、正史『三国志』においては関羽と関平が処刑された後は関羽の子である関興が後を継いだとされています。
この関興は諸葛亮に期待を寄せられていたとも書かれているので、関興は関羽の実子であったと考えられるでしょう。
しかし、その関興は若くして亡くなり、関興の子であり関羽の孫にあたる関統が後を継ぎます。ところが、関統もまた早死にしてしまい、関統の異母弟である関彝が後を継ぐことになりました。
このように、脈々と関羽の血が受け継がれていったようですが、裴松之が付した正史『三国志』注によれば蜀滅亡の際に関羽の一族は皆殺しの憂き目にあってしまったようです。
三国志ライターchopsticksの独り言
関平と関羽が実の親子であったかそうではないかについてはまだまだ議論の余地があるでしょう。
今後、関平と関羽の関係が明らかになるような史料が発見されることに期待したいですね。
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