孫権は何度か討ち取られそうになったことがあります。例えば孫権が孫策と一緒に異民族討伐戦へ出陣した際、異民族からの奇襲攻撃を受けて、討ち取られそうになります。
この時は周泰が命がけの奮闘をしたおかげで、孫権の命が守れます。
また合肥の戦いでも張遼に追い詰められて死にそうになりますが、もしこの合肥の戦いで張遼に孫権が討ち取られていたらどうなっていたのでしょうか。
今回は「はじめての三国志」のライター黒田レンのお得意企画・もしもシリーズをやっていきたいと思います。
孫権死す!!
孫権は赤壁の戦いの後、軍勢を率いて合肥城を攻略するべく出陣しますが、曹操軍の援軍に邪魔されて攻略することができませんでした。その後、孫権は軍勢を整えて再び合肥城攻略へ出陣します。
孫権は合肥城を攻撃する前に張遼率いる奇襲部隊の攻撃を受けて損害を出してしまいます。孫権は張遼軍の奇襲攻撃を受けてもへこまず、合肥攻略戦を継続していきますが、孫呉の兵士達が疫病のせいでバタバタと亡くなった為、退却することにします。
張遼は孫権軍が退却することを知り、自ら軍勢を率いて出陣します。
張遼は退却する孫権軍に激しい追撃を行い、孫権の護衛をしていた凌統らを討ち取り、孫権を殺害することに成功。孫権軍は孫権が討ち取られてしまった為、大混乱しながら退却していくのでした。
さて孫権を討ち取られた孫呉政権はいったいどうなのでしょうか。黒田レンは二つのパターンを考えてみました。
一つ目のパターン:孫呉政権が分裂
レンが考えた一つ目のパターンは孫権が討ち取られた事で孫呉政権が分裂するはずたと思います。どうして孫呉政権は分裂することになるのか紹介したいと思います。
孫呉は名士と呼ばれる人々と江東にいた豪族層の連合政権でした。孫権はこの豪族連合のトップとして君臨し、孫呉の名士層と豪族層をまとめ、江東に政権を打ち立てることに成功。
しかし孫権が張遼に討ち取られてしまった事で、連合政権のトップがいなくなり、名士層と豪族層が対立し、孫呉政権内部で抗争が起き、分裂することなったと思います。
孫呉政権は孫権を中心にまとまってたからこそ、強大な魏と戦うことが出来ましたが、孫権死後内部分裂している状態で孫呉政権へ攻め込んできた魏にかなうはずがありません。
上記の事から孫呉は名士層と豪族層が分裂し、内部抗争によって魏に滅ぼされたと思います。
では次のパターンを紹介したいと思います。
二つ目のパターン:新しい君主を立てて政権を維持
一つ目のパターンは、孫権が亡くなった事で、孫呉の政権内で名士層と豪族層が抗争を起こし内部分裂し、魏の攻撃によって滅亡するのではないかと紹介しました。では二つ目のパターンは一体なんでしょうか。
それは孫権の後継者を立てて政権を維持するものです。孫権死後、江東政権は名士層と豪族層が協力して、孫権の跡継ぎを立てて政権を維持しようと考えたのではないのでしょうか。
孫権の息子・孫登は、第二次合肥攻略戦で孫権が討ち取られた時6歳だったため、彼を跡継ぎに立てるのは幼かったことからリーダーシップを取ることができず、頼りなかったため無理があると思います。
そのため孫権の息子を跡継ぎに立てるのではなく、孫策の息子もしくは孫権の弟を跡継ぎに立てたと思われます。そして江東政権は孫権の跡継ぎを擁立して、孫権死後政権を維持しつつ、孫権を討ち取った魏と戦い続けることになったのではないのでしょうか。
三国志ライター黒田レンの独り言
今回は孫権が合肥の戦いで張遼に討ち取られてしまったらと言う事について考えてみました。
■参考 正史三国志孫権伝など
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