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[三国志の謎]劉禅は本当に暗愚だったのか?

2023年11月24日


劉禅

 

蜀の二代目皇帝劉禅(りゅうぜん)。父の偉業を継いでいながら自ら政治を執り行わず、最後には国を献じて魏に降伏したことから、父に似ず暗愚な人物であるというイメージがあります。しかし、自分で政治を執らなかったことと、他国に降伏したことだけでは、劉禅が暗愚であったかどうかは分かりません。そこで本日は、もしも劉備(りゅうび)が劉禅と同じ立場であったらどうしていたかを考えてみたいと思います。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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劉禅の状況

劉禅の状況

 

劉備が亡くなり劉禅が帝位についた時、政治の実権は諸葛亮(しょかつりょう)が握っていました。若くて実績も人脈もない劉禅は、自ら政治を執らず諸葛亮を信任することが妥当でした。このため、劉禅が自ら政治を執らなかったことは、劉禅が暗愚であったとする根拠にはなりません。蜀は魏を倒して漢王室を再興することを目標としていました。

 

初代皇帝・劉備は漢の皇帝を名乗っており(後漢の十五番目の皇帝のつもり。初代皇帝」というのは便宜上の呼び方です)、蜀の国号は「漢」ですので、蜀が中原を占拠することが漢王室再興ということになります。現実問題として、険しい山脈に囲まれた蜀から中原に攻めて行くことは困難ですので、漢王室再興がかなわなかったことは怪しむに足りません。魏から引導を渡された時点ですんなり降伏をするという劉禅の判断は、徹底抗戦を主張して蜀を泥沼の戦場に変えるよりは賢明でした。

 

その時は呉がまだ健在であったため、魏は降伏後の蜀を無下に扱うことはできませんでした。無下に扱えば、呉が魏への徹底抗戦を決意してしまい、面倒なことになるからです。自国が高く売れるうちに売ってしまった劉禅は、時機を見る目を持っていたと言えるでしょう

 

 

 

劉備の性格

孫尚香と劉備

 

劉備の行動様式を見ていると、「鶏口(けいこう)となるも牛後(ぎゅうご)となるなかれ」という考え方をしているように見えます。

 

劉備が初めてもらった官職は安喜県の尉(武装警察隊長)という役職でしたが、正史三国志先主伝の注釈に引用されている『典略』によれば、巡察にきた督郵(とくゆう)が無礼であったため、劉備は督郵を杖で百回以上も叩いたすえ、官を捨てて逃亡しています。くだらん奴のはずかしめを受けてまでちっぽけな役職にしがみつくよりは、在野でお山の大将をやっているほうがましだ、という考え方でしょう。

 

正史三国志先主伝によれば、劉備は曹操(そうそう)とともに呂布(りょふ)を破った後、曹操からたいそう厚遇を受け、左将軍という高い地位に推薦してもらい、外出する時は曹操の輿に同乗し、座る時は同じ席に座るほどでした。このような厚遇を受けながらも、劉備は曹操暗殺という大バクチのメンバーに名をつらね、やがて曹操を裏切って徐州を占拠し、曹操から征伐の軍を差し向けられ、全てを捨てて逃走しています。曹操からの厚遇に甘んじず、自分が飛躍するためにリスクをいとわなかったのでしょう。

 

同時代人の劉備に対する評では、程昱(ていいく)が「人の下につく者ではない」と言っており(正史三国志武帝紀)、劉巴(りゅうは)は「招き入れれば必ず害をなす」(正史三国志劉巴伝の注釈に引用されている『零陵先賢伝』)と言っています。

 

裴潜(はいせん)は「中国にいれば乱をなすばかりで治めることはできず、要害の地を占拠してお山の大将となるくらいはできるでしょう」(正史三国志裴潜伝)と評しています。劉備はおとなしく他者の下に屈する人ではなかったようです

 

 

 

もしも劉備が劉禅と同じ立場だったら

蜀の皇帝・劉備

 

さて、もしも劉備が劉禅と同じ立場だったとしたら、劉備に何ができたでしょうか。若くて実績も人脈もない。頭の上には諸葛亮。とりあえず、諸葛亮と仲の悪そうな人を厚遇して、バランスを取ろうとするのではないでしょうか。どうしても自分が実権を握ることができなければ、こんな国いらねえや、ってどっかに行って新勢力を立ち上げてしまうかもしれませんね

 

嫌な場所で我慢してじっとしているという選択肢は取らないので、やりたいようにやってみて切羽詰まったら身一つでどこへでも逃げて行ってしまうと思います。魏軍が都の目の前まで迫って降伏勧告をしてきた場合は、どうするでしょうか。劉禅は降伏しましたが、劉備はやはりどこまででも逃げて行ってしまうと思います。

 

劉禅が降伏を決める前には、呉に身を寄せたらどうかとか、南中(雲南省やミャンマーのほう)に立てこもったらどうかという案も臣下から出ましたが、劉備だったらそのいずれかを選択したことでしょう。そこから不死鳥のようによみがえりそうなところが、劉備の怖いところです。身一つで逃げ出した経験は何度かあるのに、いつもちゃっかり勢力を盛り返している人ですから。

 

 

三国志ライター よかミカンの独り言

三国志ライター よかミカンの独り言

 

劉備と劉禅を見比べてみると、考え方が似ていないことは確かなようです。しかし、どちらに比べてどちらが賢いとか、暗愚だとか、そういう比較はできないのではないでしょうか。劉備が諸葛亮を得る以前の挙動を見ると、彼の歩いた後は草一本残らないような生き様にも見え、それがいいかどうかは賛否両論分かれるところでしょう。

 

劉備の人生はアグレッシブでアツいから好きだ、とか、劉備は軍事面において天才である、とか、そういうことは言えるかもしれませんが、劉禅と比較にならないほど英明な人物であるかどうかは分からないと思いました。お二人ともそれぞれいいところもあれば欠点もあるということで、金子(かねこ)みすゞ風に「みんなちがって、みんないい」とでも言っておこうかなと思います。

 

 

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よかミカン

よかミカン

三国志好きが高じて会社を辞めて中国に留学したことのある夢見がちな成人です。 個人のサイトで三国志のおバカ小説を書いております。 三国志小説『ショッケンひにほゆ』 【劉備も関羽も張飛も出てこない! 三国志 蜀の北伐最前線おバカ日記】 何か一言: 皆様にたくさん三国志を読んで頂きたいという思いから わざとうさんくさい記事ばかりを書いています。 妄想は妄想、偏見は偏見、とはっきり分かるように書くことが私の良心です。 読んで下さった方が こんなわけないだろうと思ってつい三国志を読み返してしまうような記事を書きたいです!

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