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[三国志の影]野心家・鍾会、その波乱の人生とは?

2023年12月1日


鍾会

鍾会(しょうかい)

 

()(しょく)()の三国による三つ巴の戦いが魅力の『三国志』。

 

馬謖に重要な仕事を任せるなと孔明に伝えて臨終を迎える劉備

 

しかし、劉備(りゅうび)が死んだ後の蜀は北伐しすぎて正直グダグダだし、曹丕(そうひ)が死んだ後の魏も司馬(しば)氏に乗っ取られかけてるし、孫権(そんけん)は長生きしてはいたけれどやっぱりお家問題でぐちゃぐちゃだしで後半は正直ページをめくる手が重く感じられてしまいます。

 

ローランド風 鍾会

 

 

そんなわけで人々から人気の無い三国時代の後半ですが、そのような時代でも一生懸命生きていた人はたくさんいました。中には、新しい国を建てようと企てた者も。そのうちの一人として数えられるのが野心家として有名な鍾会(しょうかい)という人物です。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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教育ママのおかげで神童レベルに

マザコンな鐘会

 

鍾会は魏の重鎮・鍾繇(しょうよう)とその妾・張昌蒲(ちょうしょうほ)との間に生まれた子でした。鍾会が生まれたとき、鍾繇は既に75歳近くのおじいちゃんでしたから、鍾繇にとって鍾会はかわいくて仕方が無い存在だったことでしょう。一方、母・張昌蒲は鍾会を父親に負けないくらい立派な人に育てねばと幼いころからスパルタ英才教育を施していたのだそう。

 

その甲斐あって鍾会は4歳で『孝経(こうきょう)』、7歳で『論語(ろんご)』、8歳で『詩経(しきょう)』、10歳で『書經(しょきょう)』、11歳で『易経(えききょう)』、12歳で『春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん)』と『国語』、13歳で『周礼(しゅうらい)』と『礼記(らいき)』を暗唱することができるようになりました。そんな鍾会はたったの15歳でその当時の最高学府・太学に入学。世間の人々は鍾会を神童と称したと言います

 

 

 

人を見る目はあったけれど…

張良

張良(ちょうりょう)

 

神童・鍾会の天才ぶりは20歳になっても健在で、若くして魏王朝の重役として仕えることになりました。政治の手腕も戦の策略も見事なもので、人々はかの名軍師・張良(ちょうりょう)のようだと拍手喝采。また、鍾会は審美眼を持ち合わせており、優秀な人物を見抜く力を持っていました。そのため、王戎(おうじゅう)をはじめ数多くの名臣を司馬昭(しばしょう)に紹介するなどしていたようです。

 

ところが、その一方で気に食わない人物を蹴落とす黒い側面も。その最たる例として挙げられるのが竹林の七賢の1人に数えられる嵆康(けいこう)です。鍾会はせっかく嵆康を訪ねたのにいつまで経っても声をかけてもらえなかったということで嵆康を怨み、嵆康についてあること無いこと言いふらして嵆康を処刑されるように画策したと言われています。

 

 

 

ギラギラの野心が駄々洩れ

ギラギラの野心が駄々洩れな鐘会

 

また、鍾会はかなりの野心家だったらしく周囲から眉を(ひそ)められることも多々あったようです。鍾会はかなりの自信家で傲慢な態度をとることがしばしばあったらしく、友人に「野心が大きすぎる」と注意されることもあった様子。特に女性に警戒されるようなオーラを放っていたらしく、司馬昭の夫人や羊祜(ようこ)の叔母に「あの人は危険人物です」と言われていたようです。

 

 

 

独立を企むもあっけなく失敗

トウ艾(鄧艾)が気に食わない鍾会

 

その野心家ぶりが密かに噂になっていた鍾会でしたが、司馬昭は蜀攻略の相棒に鍾会を選びました。その際、鄧艾(とうがい)も一緒に蜀征伐に乗り出していたのですが、鍾会は鄧艾が大っ嫌いでした

 

 

鍾会に謀反の疑いを讒言され処刑される鄧艾(トウ艾)

 

蜀を平定した後は、邪魔になった鄧艾の身勝手な行動を謀反人として弾劾し、蜀の地から追っ払います。鄧艾は都に連行される途中に殺されてしまうのですが、これももしかしたら…考えると背筋が寒くなっちゃいますね。

 

 

鍾会を独立するようそそのかす姜維

 

 

これによって鍾会は蜀の地での指揮権を独占することに成功したのですが、そんな鍾会に近づく者が1人…。元々鍾会はかなりの野心家であるということを聞いていた姜維(きょうい)はその野心を利用して蜀を復活させようと目論みます。鄧艾が居なくなって気が大きくなった鍾会は姜維の真意などつゆ知らず、姜維の勧めに従って偽の宴を催して蜀に遠征していた魏の重役たちを監禁。

 

 

自分を気に入る鍾会を蜀の復活に利用できると考える姜維

 

 

鍾会は「このまま軍勢を率いて司馬昭を討って魏を乗っ取ろう。もしも失敗しても蜀の地で新しい国を作ろう。」なんてことを考えていました。ところが、監禁されていた胡烈(これつ)が従卒に鍾会に謀反の志があるということを流し、このことによって鍾会の謀反の計画はあっさりバレ、鍾会と姜維は魏軍によってあっけなく殺されてしまったのでした。

 

 

三国志ライターchopsticksの独り言

三国志ライター chopsticks

 

かつて神童と呼ばれた鍾会の最期は意外とあっけないものでしたね。もしも彼が野心を抱くことなく魏のために尽くし続けることができる人物だったら、蜀を平らげたことによって調子に乗らなければ、もっと良い死に方ができたかもしれないのにと思わずにはいられません。

 

 

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清朝考証学を勉強中。 銭大昕の史学考証が専門。 片田舎で隠者さながらの晴耕雨読の日々を満喫中。 好きな歴史人物: 諸葛亮、陶淵明、銭大昕 何か一言: 皆さんのお役に立てるような情報を発信できればと思っています。 どうぞよろしくお願いいたします。

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