諸葛亮は建興5年11月、上奏文にてこう述べます。
「曹操が五度攻撃して下すことが出来なかった男、その名は昌豨」……まあ記録だけ見ると、五回なのは誤解では?(爆笑ポイント)となってしまうのですが。今回はその幾度も曹操に立ち向かった昌豨、逆を言うと曹操にすら倒せなかった昌豨と、その昌豨を打ち破り、処刑した于禁のお話です。
曹操の配下の于禁が処刑したなら、ある意味曹操は昌豨を倒したのでは?と思った方。よろしければお付き合い下さいませ。
この記事の目次
呂布と同盟した後、一時的に曹操に降伏(一時的に)
さて昌豨は独立勢力の一人でした。泰山方面で臧覇を首領として活動していた軍閥の一人です……そしてこの時期の軍閥と言えばあっちこっちで暴れているイメージがありますが、まあ彼らもその一派閥の一つでした。当初は呂布と敵対していましたが、後に手を組み、その呂布が曹操に滅ぼされた際には、一時的に曹操に降伏しました。一時的に、です。
昌豨、何度も何度も向かってくる!
その後も昌豨は、何度も曹操に反乱を起こします。劉備に呼応しては反乱を起こし、曹操が袁紹と決戦と聞けば反乱を起こし……その度に曹操軍の名将らが何とか鎮圧に向かっては降伏する、を繰り返すのです。そして206年、昌豨の反乱再び。こんなに何回も曹操に反乱を起こすのに許すあたり、本人も優秀であったのでしょう。本人が優秀だったからこそ、曹操も何とか飼いならしたかったのかもしれません。
事実、夏侯淵や張遼、そして于禁といった名高い名将らが昌豨の鎮圧に手こずってきました。
この回では于禁は手こずりつつも、夏侯淵からの支援を受け、再び昌豨を降伏に追い込みました。ですが、この反乱は今間でのようにはいきませんでした。
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于禁、泣いて昌豨を切る
ここで明かされる衝撃の真実、なんと于禁は昌豨とは旧友でした。旧友だったからこそ昌豨は降伏したのかもしれませんが。しかし相手は皆さんもご存知「于禁」です。
「包囲された後に降伏したものは赦してはならない」
于禁はこの法に則り、206年、昌豨は処刑にてこの世を去ります。諸将が曹操の指示を仰ぐべきだ、という反対を押し切り、潔癖なまでに真面目な于禁は昌豨を処刑しました。涙を流しながら、自らの手で旧友を処刑したのです。
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于禁の判断と、曹操の昌豨への哀れみ
そして于禁が昌豨を処刑したという報告は、当然ながら曹操の元に届きました。どこまでも真面目に軍規を守る、曹操は于禁の判断を褒めたと言います。しかし于禁を褒める一方で、曹操は昌豨を哀れみました。
「ああ、于禁以外の将に降伏すればよかったものを」
于禁を称賛しつつも、昌豨の才も惜しむ、うーん、曹操って感じ。尚、三国志注釈でお馴染みの裴松之先生は「曹操のとこに送ったら赦して貰えたかもしれないのに!そうするべきだったでしょ!」と于禁の判断を非難しています。
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于禁はどうして昌豨を処刑したのか
于禁がどうして昌豨を処刑したのか。それは于禁の生来の気真面目さ、潔癖さか。友人であったのに、いや友人であったからこそ法に則らなければならないと判断してしまった、気真面目が仇となったのか。曹操も目をかけていた、裴松之の言うように曹操の指示を仰ぐようにしたならば、許される可能性があったのに……いいえ、違います。曹操が目をかけていたからこそ、惜しんでいたからこそ、于禁は独断と言われても昌豨を処刑したのではないでしょうか。
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于禁と昌豨、旧友たちの二度目の邂逅
さてここでもう一つのお話。曹操と袁紹の官渡決戦の際に昌豨を鎮圧に当たったのは、于禁でした。この際に于禁だけでは鎮圧に至らず、夏侯淵が救援に入り、分が悪くなった昌豨はこの時も旧友のよしみから于禁に降伏、そして于禁はこれを受け入れたのです。
昌豨は幾度も曹操に反乱を起こしました。その度に曹操に降伏し、そして曹操もそれを許した。それは昌豨の才能をかっていて、期待していたから。しかし昌豨は強かった、夏侯淵や張遼、于禁は昌豨を相手に手こずった程の猛将であり、名将。于禁は気付いていた。旧友だからこそ、昌豨はまた曹操に反乱を起こすと。于禁は気付いていた。曹操は再び、昌豨を許してしまうと。そうしたら次こそ、反乱が成功してしまうかもしれない。
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曹操が倒せなかった昌豨を処刑した男、于禁
二度目の間違いは、起こしてはならない。曹操の忠臣なればこそ、于禁は殺せる時に昌豨を殺しておきたかった。例え独断と言われても、曹操の意に反することであっても、于禁は忠義から、旧友・昌豨を殺したのではないでしょうか。
もしかして、普段から軍律に厳しい于禁がここで昌豨を許せば、それを謗られる可能性を危惧したのかもしれません。いいや、規律に厳しいからこそ、何度も反乱しては降伏する昌豨が許せなかったのかもしれません。それでも、筆者は「于禁が忠臣だからこそ、昌豨を処刑した」という説を挙げてみました。
ただ規律に厳しい、清廉な性格だからではなく、真っすぐな忠誠心から。だからこそ曹操は昌豨を倒せなかったし、于禁は処刑できたのではないか。そう思った次第であります。
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では昌豨はどうして于禁に降伏したのか。もしかしたら昌豨もまた、幾度も反乱を起こしては自分を許す曹操に、何かを感じていたのかもしれません。それでも昌豨は、最期まで曹操に反抗したままの道を選びたかったのではないでしょうか?
昌豨は旧友だからこそ、于禁がそうすると分かっていたからこそ、于禁に降伏したのではないかと思います。どこまでも曹操に反抗した昌豨と、どこまでも曹操に忠義を誓った于禁。友情があったからこそ二人はここで邂逅した、それは運命だったのではないでしょうか。
初めて見た時は「融通が利かないなぁ」なんて感想を抱いてしまいましたが、今回ふともしかして、と。そういう于禁と、そして昌豨の最期も、良いのではないでしょうか。どぼーん。
参考:蜀書先主伝 魏書武帝記 于禁伝 夏侯淵伝
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