驚愕!許褚の強さを示すエピソードは本当なの?曹操のボディーガードの実力に迫る

2022年3月10日


 

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許チョ(許褚)と曹操

 

許褚(きょちょ)曹操(そうそう)のボディーガード的な役目をしており、戦場でも多くの功績をあげた名将です。そんな許褚、とにかくその「強さ」が語り草になっているようです。今回の記事ではそんな許褚の「強さ」とは何なのか?

 

エピソードを交えて紹介してきます。

まずは許褚の生い立ちから。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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若いころから怪力で名を知られていた許褚

許チョ

 

許褚は沛国(はいけん)ショウ県(現在の安徽省(あんきしょう)ハク州市)の出身です。身長約180センチ以上あったという当時としてはかなり長身で、腰回りも1メートル以上あったそうです。

 

暴れまわる黄巾賊

 

黄巾(こうきん)の乱」が吹き荒れた頃の事です。許褚は数千人を率いて砦にこもっていたのですが、食料が乏しくなってきました。そこで一端和睦を申し入れ、条件として牛と食料を交換することになったのです。しかし、黄巾党が持って帰ろうとした牛は逃げてしまったのです。

 

許チョ(許褚)

 

そこでなんと許褚は逃げようとする牛のしっぽをつかみ、そのまま百歩あまり引きずっていった、というのです。これに驚いた黄巾族は逃げてしまいました。許褚の腕っぷしの強さを示すエピソードの一つですが、その和睦も牛が逃亡することを見越した偽りの和睦だった、とか。

 

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黄巾賊

 

 

 

 

曹操のボディーガードとして活躍する許褚

許チョ(許褚)と曹操

 

曹操の勢力が許褚の周辺に及ぶと、彼は軍勢を整えて曹操に仕えることになりました。曹操は許褚を少し見ただけで彼を気にいり、自らの親衛隊の一人としてそば近くで警護をさせることになったのです。

 

力をつけ始めた曹操をぶっ潰そうと考えた袁紹

 

官渡(かんと)の戦い」で袁紹(えんしょう)軍と対峙していた時、曹操軍を裏切り、曹操の命を狙っているものがいました。しかし、許褚の警護は固く、なかなか曹操に近づくことができません。

 

そこで許褚が休暇の際に曹操の近くに侵入することにしたのですが、なんとそこにはいないはずの許褚がいるではないですか!暗殺者は許褚にあえなく殺されます。なんと許褚は休みなのに胸騒ぎがし、曹操の元に控えていたそうなのです。許褚の勘の強さも示すエピソードです。

 

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官渡の戦い特集

 

 

許褚の戦場での強さ

蜀馬に乗って戦場を駆け抜ける馬超

 

曹操を間近で守っていた許褚ですが、戦場でも強さを見せています。曹操が「馬超(ばちょう)」と戦った時の事。曹操と許褚が率いる近衛隊を馬超が思いもよらないところから急襲したのです。その時は河を渡ろうとしていたのですが、馬超軍はそこに矢を雨のごとく降らせます。

 

馬超 vs 許褚

 

味方の兵たちは我先にと船に乗り込もうとし、曹操の船も沈没寸前となってしまいます。そこで許褚は船に乗ろうとする兵士たちを斬り、身を挺して曹操を矢から守ったのです。船頭が矢にあたって船が行動不能となると、許褚は自ら船を操り、何とか戦場から逃げ出すことに成功したのです。

 

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馬超特集

 

 

当時からその強さで有名な許褚には「あだ名」が

徐晃と許チョ(許褚)

 

許褚の強さは当時から知れ渡っており、彼は「虎痴(こち)」というあだ名で呼ばれていました。これは虎のような強さを誇るにも関わらず、普段はそれを感じさせないことから付いたあだ名でした。

 

五虎大将軍の馬超

 

先述の馬超が曹操との会談に臨んだ時、馬超は「公(あなた)の軍には“虎公”という武将がいるというが、今はどうしているのか。」と尋ねたそうです。「虎痴」とそのまま呼ぶのは遠慮して「虎公」と呼んでいたのでしょう。それほど許褚のあだ名は知れ渡っていたと言えるでしょう。

 

正史三国志を執筆する陳寿

 

三国志」の著者「陳寿(ちんじゅ)」は「許褚はみんなにあだ名でよばれており、“虎痴”が本名だと思っている人もいる」と記しています。

 

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部下の強さも抜きんでていた許褚

三国志の武器 巣車 許チョ(許褚)

 

近衛隊を率いていた許褚ですが、その部下たちも優れていました。許褚の配下たちの中には戦功をあげ、将軍に昇進した者など出世したものが大勢いたそうです。元々は許褚が連れてきた腕っぷしの強い男たちだったようですが、許褚も部下を見る目があったのでしょうね。

 

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朝の仕度のお供は!ながら三国志

 

 

許褚の晩年

許チョ(許褚)と曹操

 

曹操とともに歩んだ許褚ですが、曹操が亡くなったときは血を吐くまで号泣したそうです。息子の曹丕(そうひ)にも信頼され、引き続き近衛兵を率いていました。許褚の亡くなった年は正確にはわかりませんが、曹丕の息子「曹叡(そうえい)」の代に亡くなったそうですから、かなりの長生きだったと推定されます。

 

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ほのぼの日本史

 

 

三国志ライターみうらの独り言

みうらひろし(提供)

曹操は何度か命の危機を迎えたことがありますが、それを切り抜けられたのは強いボディーガード許褚がいたおかげ、という所もあるでしょうね。許褚はとても実直な人柄だったそうですが、曹操とはどのような会話をしていたのでしょうか?

 

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歴史が好きになったきっかけはテレビの再放送で観た人形劇の三国志でした。そこから歴史、時代小説にはまり現在に至ります。日本史ももちろん好きですよ。推しの小説家は伊東潤さんと北方謙三さん。 好きな歴史人物: 呂蒙、鄧艾、長宗我部盛親 何か一言: 中国で三国志グッツを買おうとしたら「これは日本人しか買わないよ!」と(日本語で)言われたのが思い出です。

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