三国志演義には諸葛亮が曹操軍から十万本の矢をせしめた話があります。濃霧の晩、草束を立てた早舟二十艘を曹操軍の陣営の前で往来させ、敵襲と思った曹操軍から乱射される矢を草束にいっぱい受け止めて引き返し、まんまと矢をゲットしました。
この話、もとは正史三国志の注釈に引かれている『魏略』で孫権が行ったことですが、後に周瑜が行ったこととして脚色され、さらに三国志演義では諸葛亮の手柄にすり替えられています。
この記事の目次
孫権の事績――『呉歴』の場合
船に曹操軍の矢を満載して自軍に引き返した話は、正史三国志呉主伝の注釈に引用されている『魏略』にあります。しかしまずは『魏略』の記述の隣に引用されている『呉歴』の記述を見てみましょう。
孫権がしばしば戦いを挑みかけたが、曹公は守りを固めて軍を出さなかった。孫権はそこでみずから軽舟に乗って、濡須口から曹公の軍中に漕ぎ入れた。部将たちはみな戦いを挑発にきた者だと考え、これに攻撃をかけようとした。
曹公がいった、「あれは孫権みずからがわが軍の隊伍の様子を見に来たのにちがいない。」軍中に命令を出し全部隊を完全な戦闘体制に入らせるとともに、弓・弩(いしゆみ)をみだりに発射してはならぬと命じた。
孫権は五、六里を進み、舟をめぐらせて帰還すると楽隊に音楽を鳴らさせた。曹公は、孫権の艦船や武器や隊伍が少しの乱れもなく整っているのを見て、ため息をついていった、「息子を持つなら孫仲謀(孫権)のようなのが欲しいものだ。
劉景升(劉表)の息子たちなんぞは豚や犬も同様だ。」
(和訳引用元:ちくま学芸文庫『正史三国志6呉書Ⅰ』1993年5月6日 小南一郎訳)
ここでは、曹操軍は矢を射かけていないんですね。臨戦態勢をとりながら呉の小舟をじっと見守る曹操軍と、その前をゆうゆうと進む肝っ玉孫権との、静かな中に息詰まるような緊張感の漲る場面です。
孫権の事績――『魏略』の場合
先ほどの『呉歴』の次に引用されているのが、『魏略』の下記の記述です。
孫権が大きな船に乗って軍情偵察にやって来ると、曹公は、弓・弩をめったやたらに射かけさせた。矢がその船につきささり、船は一方だけが重くなってひっくり返りそうになった。
孫権は、そこで船を廻らせ、別の面で矢を受けた。ささった矢が平均し船が安定したところで、自軍へ引き上げた。
(和訳引用元:ちくま学芸文庫『正史三国志6呉書Ⅰ』1993年5月6日 小南一郎訳)
先ほどの『呉歴』よりも、船のサイズが大きくなっていますね。『呉歴』の緊張感あふれる描写と比べると、『魏略』で矢を乱射させた曹操が単純バカのように見えてしまいます。船の片っぽが重くなったからくるりとひっくり返してバランスをとったというのも、どうも冗談じみて見えます。
これはひょっとすると、孫権のスーパーマンぶりを強調する呉人の談話を『魏略』がそのまま採録してしまったのでは、と疑いたくなってしまうような気配がありませんかね……。
唐代の歴史家・劉知機は『史通』の中で、『魏略』のことを「巨細畢載、蕪累甚多(巨細こどごとく採録されており、文辞は冗長である)」と批判していますので、『魏略』が採録している情報は玉石混淆なのではないかという疑念がふくらみます……。『魏略』の著者の魚豢も、『呉歴』の著者の胡沖も、三国時代をリアルタイムで生きた人なのですが、魚豢は魏の人、胡沖は呉の人ですので、孫権の船は胡沖が『呉歴』で記したように矢なんて受けていないというほうが本当だったのではないでしょうか。
周瑜が矢をゲットした話に脚色される--三国志平話
元ネタの時点ですでに疑わしい矢をゲットした逸話ですが、十四世紀に出版された娯楽作品「三国志平話」では、矢をゲットした人物が孫権ではなく孫権の重臣の周瑜にすり替えられています。
周瑜の船は引きあげる。蒯越と蔡瑁がそのあとを追いかけると、周瑜は突然とって返した。周瑜は一艘の大船、十の小船を出し、それぞれの船には千人の兵がおり、曹操の軍へ矢を射かけた。蒯越と蔡瑁も、数千の矢を放たせて応戦した。
さて周瑜は船体を幕で覆っていた。曹操の兵が矢を放つと、周瑜は船の左面でこれを受ける。そして漕ぎ手に命じて船を回転させ、今度は右側面で矢を受ける。しばらくすると、矢は船でいっぱいになった。周瑜が引きあげるとき、ほぼ数百万の矢を得ていた。周瑜は喜んで言った。「丞相、ありがたく矢をいただきます」
(和訳引用元:『三国志平話』二階堂善弘/中川諭 訳注 株式会社光栄 1999年3月5日)
『魏略』では孫権の偵察活動中の話でしたが、「三国志平話」は周瑜が交戦中に船を動かし矢を打ち合っている時の出来事になっています。「三国志平話」の読者層は庶民なので、偵察活動中というひっそりとしたシチュエーションよりも交戦中でドンパチやっている絵のほうが好まれて脚色されたのでしょう。担い手が孫権から周瑜に変わっている理由として考えられるのは下記二点です。
【1.絵的にオイシイ】
周瑜はイケメンで楽器が弾けて奥さんも美人というエンタメ的においしいキャラなので、物語の中で活躍するのは孫権よりも周瑜のほうが面白い。
【2.噛ませ犬効果アップ】
周瑜にはメインキャラの劉備や諸葛亮に出し抜かれるという噛ませ犬の役割があります。周瑜に鮮やかな戦功を積ませて“あの周瑜が出し抜かれるとは!”という主役引き立て効果をアップさせるため、孫権のすごい話を周瑜のすごい話として書き換えたのでしょう。
余談ですが、数百万本ってすごいですね。射手が一万人いたとして、一人あたり何百本も射たなきゃいけません。重さが一本30gだとすると、百万本で30トンです。数百万なら、総重量は数十トン~数百トンにのぼります。十一艘の船が交戦中にそんなに矢を満載するゆとりがあるんだか。……三国志平話は庶民の娯楽。リアリティはどうでも、面白ければそれでいい……。
諸葛亮の手柄にすり替えられる--三国志演義
三国志演義では、先行作品の三国志平話で周瑜の手柄になっていた話が諸葛亮の手柄にすり替えられています。のみならず、周瑜がゆくゆくは自軍の脅威になるであろう諸葛亮の才を憎んで、十日以内に十万本の矢を作れと無茶ぶりするという意地悪エピソードに作り替えられています。
手柄を横取りするだけでは飽き足らず悪役に仕立てるなんて、三国志演義の周瑜に対する仕打ちはあんまりです!三国志演義にある諸葛亮の「草船借箭(草船で箭(や)を借りる)」エピソードの概要は下記の通りです。
周瑜の無茶ぶりに対し、諸葛亮は十日もいらぬ三日で充分と言う。たった三日で十万本の矢を作るなんて無理ゲーなのに、諸葛亮は焦るどころかちっとも作業にとりかからず、草束を立て青い布を張った船二十艘とわずかな兵士を用意しただけである。
三日目の深夜、濃霧の出る中を漕ぎだし、二十艘を敵陣前に一列に並べて進軍の太鼓を打ち鳴らし兵士たちにときの声をあげさせた。曹操は濃霧の中の敵襲には伏兵があるに違いないと疑い、迎撃の船を出すことはせず自軍の陣地から矢を乱射した。
矢は草束に突き刺さってゆく。霧がうすらいだ頃、諸葛亮は兵士たちに「丞相の矢をありがたくいただきます」とさけばせ、曹操軍の矢を満載した船で引き上げた。
諸葛亮の「草船借箭」エピソードは正史三国志の注釈の孫権からパクって作られたと言われていますが、三国志平話の「丞相、ありがたく矢をいただきます」という正史三国志の注釈にはないセリフがほとんどそのまま流用されていることから、三国志演義は三国志平話の周瑜からパクったものであると考えたほうが自然でしょう。(三国志演義の作者はどちらも読んでいるはずですが)
新唐書からもパクる!なりふりかまわぬ諸葛亮アゲ
三国志平話と三国志演義の違いは下記の5点です。
1.周瑜の手柄を取り上げ諸葛亮に与える
2.周瑜を意地悪キャラにする
3.諸葛亮が三日後の濃霧を予知していたという神算要素が加わっている
4.矢の本数が十万本になっている(平話では数百万本)
5.視界が利かない状況と草束に矢を突き立てるという要素が加わっている
このうち、4番と5番は「新唐書」でスーパーヒーローとして描かれている張巡の伝説からパクられた要素です。籠城中に矢が尽きた張巡は、わら人形を千体あまり作って黒い服を着せ、夜に城壁の上からぶら下げて城外に下ろしました。
敵兵はこれを城内から兵士が出てきたと思い矢を射かけたので、あとからわら人形を引き上げると数十万の矢を得ることができました。三国志平話の「数百万本」を「十万本」に書き換えたことには、数百万本なんて多すぎて荒唐無稽という編纂意図以外に、“張巡が十万本の矢を得た”という有名なエピソードを借りて、諸葛亮も張巡なみの天才ですと言いたい気持ちもあったのでしょう。
(張巡は日本ではあまり知られていませんが中国では有名です。簡体字でgoogle検索すると劉備よりたくさんヒットします)視界の利かない中で草束に矢を射かけさせるというのも、三国志平話にはない張巡要素です。
三国志演義は、平話の周瑜の手柄を横流ししただけでは飽き足らず、新唐書の張巡からもパクってなりふりかまわぬ諸葛亮アゲを展開しているのです。
三国志ライター よかミカンの独り言
こうして手柄の横流しの履歴を見ていくと、いったい誰が本当のヒーローだったんだかよく分からないことになってきますね。諸葛亮が赤壁の戦いであまり活躍しなかったということは確かかもしれません。chopsticksさんの記事にあるように、風が吹き始めて船団が燃えて勝負ありというのも鄱陽湖の戦いのパクりだということですし……。
三国志演義はエンタメ作品なので、面白ければそれでいいんですけれども……。というかパクりの歴史に見る近世の人々の精神構造について考えるのが面白くってしょうがないです……。
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