三国志には、様々なタイプの武将が登場します。呂布や張遼のように戦えば戦うだけ連戦連勝するタイプが有名ですが、一度負けても、どんどん挽回して最期は劣勢を覆すタフな武将もいました。濡須口の戦いで何度も劣勢を覆した徐盛も、そんなタフネスな人物でしょう。
大風がもたらした大損害を挽回して手柄を立てる
徐盛の活躍が見られるのは、第一次濡須口の戦いにおいてです。曹操の軍勢40万(江表伝)が濡須口の北岸に陣をつくると、それを迎え撃つ形で、董襲と徐盛が船団で待機していました。しかし、夜中、天候が激変して大風が吹きまくり、董襲の楼船が舵を失い迷走した挙句に五隻とも横転沈没する事態になります。徐盛の蒙衝(突撃船)も大風に煽られて、あろうことか北岸の曹操陣営に漂着してしまうのです。
敵は40万で雲霞の如し勇敢な呉将といえど、怯えて船を回収できません。ところが徐盛だけは違い、自軍の兵士をまとめると北岸に向かって行き曹操軍に突撃しました。夜中なので、曹操軍の動きは鈍く奇襲となり、曹操軍の兵士は気絶、多くが殺傷された上に、徐盛は天候の回復を待ち、悠々と蒙衝に乗り自陣に帰還を果たしました。
第一次濡須口の戦いでは、この後に孫権の命令を受けた甘寧が決死隊百名と共に夜中に曹操軍に斬り込んで数十の首を挙げていて戦略うんぬんよりも、呉将の激しい気合もあり、曹操は退却します。
またしても大風で呉軍が大損害を受けるが・・
西暦223年、皇帝に即位した曹丕が呉を攻略しようと、江陵、濡須塢、洞口の3つのポイントを魏のオールスターで攻めたのが第三次濡須口の戦いです。ここで徐盛は呂範の指揮下で、洞口に駐屯していました。ところが、ここで再び、夜半に暴風が吹き荒れ、呂範の船団はコントロールを失い北岸の魏軍に向かって進んでしまいます。
曹休は、これを待ち受けて散々に打ち破り、呉軍は数千の戦死者・溺死者を出します。おまけに、呂範の配下の孫朗が禁を破って火攻めに転じてしまい、その火が呉の軍需物資に燃え移り延焼してしまう大失敗を侵しました。立て直し不可能と見た呂範は、敗残兵をまとめて南岸に引き返します。
曹休は洞口を攻撃しようと臧覇に兵1万と快速船500隻を与えて徐盛と全琮を攻撃しました。しかし、ここで徐盛が脅威の粘りを発揮し臧覇の攻撃を食い止めます。予想外の反撃に、これ以上は戦えないと見た臧覇は退却を決意しますが、徐盛は引き返そうとする臧覇軍を追撃し散々に打ち破る事に成功しました。
勝ち戦のつもりでいた曹休は臧覇が破れたので、呉軍に恐れを抱きます。そこに、別行動をしていた賀斉の水軍がやってくるとの情報が届き、曹休は勝利は難しいと判断して退却するのです。まさに徐盛の劣勢からの大奮闘が天災による不利を覆したそう言って過言ではない戦いでしょう。
偽の一夕城を築いて曹丕を退却させる
猪武者のように見える徐盛ですが、奇計を繰り出す事もありました。第三次濡須口の戦いの翌年、224年、曹丕は再び大軍を起こして親征します。度重なる侵攻に苦しむ呉ですが、徐盛は一計を案じました。
それは、建業から土を盛り上げて蓆で囲って城壁のように見せ、城壁の上には、木枠を組んで楼のように見せかけ、河には多くの船を浮かべ連なる山々には呉の旗を翻し、藁人形で出来た兵士に甲冑を被せさも大軍が迎え撃つように見せるジオラマを造る事でした。
呉の将軍たちは、そんなものはすぐばれるから無駄な事だと止めますが徐盛の決意は固く、孫権も許します。
果たして、曹丕は広陵に至って徐盛の偽の城壁を見るとビックリします。短期間に、これだけの備えをするならとても遠征は成功しないと戦いを仕掛けるのを躊躇し始めたのです。こうして考えこむ間に、時は流れ長江の水量が増加したので、曹丕はとうとう、何もしないまま退却してしまいました。
三国志ライターkawausoの独り言
このように戦争では底力のあるタフネス将軍だった徐盛でしたが、古参の武将と言う事で誇り高く、自分より下と見做した人物はバカにして横柄に振る舞い容易には服さない悪癖がありました。
例えば、孫権が周泰の配下に徐盛を置くと格下の配下になるのは不満と従わず、夷陵の戦いで陸遜が総指揮官になると余所者の将軍として、そのやり方にケチをつけ一時は呉の陣営が崩壊する瀬戸際にまで陸遜を追い詰めています。
ただ、孫権は、そのような徐盛の性格を熟知していて、忍耐強く納得を得るような行動をして服させていました。その点にこそ、個性ありすぎでトラブルメーカーにもなる徐盛が、大きな手柄を立てた理由があると言うべきでしょう。
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