曹操は長年持病の頭痛に悩まされ、結局持病が悪化したことによって亡くなってしまったと言われていますが、劉備はそのような目立つ病歴もなかったのに、突然病に倒れて亡くなってしまいます。なぜ劉備は突然病に臥してしまったのでしょうか?その原因を究明していきたいと思います。
関羽の死により心にストレスが
劉備の病については、精神的なストレスによって引き起こされたものであると考えられています。劉備にそれほどのストレスをもたらしたものとは一体何だったのでしょうか?その発端となった出来事としては関羽の死が挙げられるでしょう。桃園で義兄弟の契りを交わしてから、何十年も共に戦ってきた関羽ですが、呉の呂蒙の計略により捕まって処刑されてしまいます。
その頃劉備は蜀に漢中王として君臨し、あとは益州と荊州の二方向から曹操を攻め滅ぼして…といった具合に天下三分の計が成ることばかりを描いていたものですから、この関羽の訃報はまさに青天の霹靂でした。身内ともいえる関羽の死は、劉備に大きなストレスを与えます。しかし、このストレスを劉備は怒り狂うことによって発散。
劉備は孫権が和睦を申し出たり、諸葛亮をはじめとする臣下たちに必死で止められたりしてもその怒りを抑えることができず、弔い合戦ともいえる夷陵の戦いを起こす準備を始めたのでした。
張飛の死でストレス倍増
そんな中、献帝が死んだという噂が流れたり、献帝から魏の曹丕が帝位を奪ったという話が舞い込んだりして、蜀の群臣たちは色めき立ちます。そこで重臣たちは劉備に皇帝に即位することをすすめ、劉備は蜀の地で皇帝となったのでした。しかし、不幸なこととは続くもの。今度は張飛が亡くなってしまいます。
劉備と江州で合流する予定だった張飛ですが、部下の裏切りにあって命を落としてしまったのです。劉備は張飛の都督からその死を聞く前に張飛が普段から厳しい刑罰で部下を締めつけていたことを思い出し、「あぁ、張飛が死んだか…」と悟ったのだそう。このときには関羽が殺されたときほど感情を爆発させることはなかった劉備ですが、関羽を失った時と同等のストレスをその身体に抱え込むことになったのでした。
夷陵の戦いの敗北で更にストレス
呉の臣下が関羽を討ったということと、張飛を裏切った部下が呉に逃げたということで、呉を討つ大義名分が完全に出来上がった劉備は自ら呉に向かって出陣します。序盤こそ快勝し続けた劉備でしたが、そのために調子に乗って罠に気づかず、夷陵で陸遜の火計に見事に引っかかって大敗を喫してしまいます。劉備は何とか白帝城に逃げ込みますが、調子に乗ってしまった自分の不甲斐なさや、たくさんの部下を死なせてしまった罪悪感、そして、関羽と張飛の敵討ちが叶わなかったという絶望に打ちひしがれ、ついに床に臥せてしまいます。
過度なストレスは胃腸に大きな負荷を与えたらしく、劉備は下痢や腹痛に悩まされるようになりました。実は、消化器官と脳というものは密接な関わりがあり、精神的なダメージは消化器官にあらわれることが多いのです。劉備のそれはこの典型ともいえるでしょう。
しかし、胃腸へのダメージだけではなく手足がうまく動かなくなったり、目がかすんでものがよくみえなくなったりついには不眠症を患ったりしてしまったという劉備。弱った胃腸から細菌が侵入して、手足や目に悪影響を及ぼしたとも考えられますが、不眠症をも患ったということから、これらの症状はやはり精神的なダメージに起因するものと考えられるのではないでしょうか。実は、気持ちが落ち込むということで有名なうつ病にも、身体が動かなくなったり視界がぼんやりしてはっきり見えなくなったりといった症状があります。
劉備は身体的な面に特に強い症状が出るうつ病を患い、胃腸がズタズタになってしまうほど病んでしまったことによって亡くなってしまったと考えられるのではないでしょうか。
三国志ライターchopsticksの独り言
「断腸の思い」という言葉がありますが、この話のもととなった母猿も子猿を連れ去られたという精神的ダメージによって腸がズタズタになっていたといいます。きっと劉備もこの母猿と同じくらい、苦しく辛い思いをしたのでしょう。
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