島国に住む私たち日本人には考えられないことですが、中国に建てられた歴代王朝の多くは国境を接する異民族に対して常に警戒をし続けていました。周王朝は西方の犬戎に悩まされた挙句に滅ぼされ、漢王朝は北方の匈奴と盟約を結んでは破り破られを繰り返し、その後も数多くの王朝が異民族と争いを繰り広げたのでした。
そんなわけで、中国史を語る際には無視できない存在である異民族たち。三国時代にも数多くの異民族が漢民族を取り巻くようにひしめき合っていましたが、呉国の領土に組み込まれた揚州にも異民族の姿がありました。それこそが山越族です。
この記事の目次
袁術、ド田舎・揚州に閑居す
反董卓軍として共に戦った袁術と袁紹ですが、袁術の配下・孫堅が董卓を洛陽から長安まで敗走させた後両者の関係にひびが入る出来事が起こります。袁術が孫堅を豫洲刺史に任命したというのに、袁紹が周喁を豫洲刺史として豫洲に派遣してきたのです。当然一触即発で戦争が勃発。これにより反董卓連合は空中分解し、群雄割拠の時代が訪れたのでした。
袁術は豫洲で袁紹勢力と争った後、今度は荊州の劉表にけんかを吹っ掛けます。これを見た袁紹は劉表と手を組み、曹操もこれに乗っかりました。その結果袁術は惨敗。本拠地だった南陽郡を捨てて揚州に逃げ延びたのでした。しかし、この揚州、当時はとんでもないド田舎だったのでした。
袁術が来てから漢民族が増えたけれど…
宋代以後、「江浙熟すれば天下足る」なんていう言葉が流行りますが、袁術が逃げ込んだ当時の揚州すなわち長江下流域一帯の地域はド田舎もド田舎、それも山の中には山越族とかいう謎の異民族たちが住みついていてとても安心して暮らしていける場所ではありませんでした。
しかし、山越族にとっても袁術をはじめとする漢民族は言ってしまえばエイリアン。なんか最近平地の人間が増えたなとは思ったけど、自分たちの住処にまで侵略しかねない勢いではないか!山越族も続々と増える漢民族に恐れを抱いていたのでした。
孫策、袁術が北の方に気をとられているうちに南に進出
袁術はよくわからない蛮族がウヨウヨいる揚州に根をおろすつもりなど毛頭無く、何とかして中原に返り咲かんと考えていました。そんなわけで揚州の南側については孫策に任せきりにして自分は劉備を滅ぼして徐州を奪わんと奮闘します。
しかし、奪えそうで奪えない徐州に袁術もイライラ…。袁術がモタモタしているうちに孫策はあっという間に南を平らげて江東の支配を宣言。孫策は念願かなって袁術からの独立を果たしたのでした。
山越族が倒せない…!?
江東を強大な軍事力によってあっという間に平らげた孫策でしたが、その強引なやり方によって人々の恨みを大量に買ってしまったのでした。
孫策に恨みを抱いた人々の中には当然山越族の姿もありました。彼らは孫策を揚州から追い出そうと度々反乱を起こしますが、孫策はこれをやはり軍事力によって抑えつけようと粛清に乗り出します。しかし、山越族の粛清は一筋縄ではいかず、さっさと江東を鎮めて中原に繰り出したい孫策をイラ立たせました。
結局孫策は食客の襲撃を受けて志半ばで命を落としてしまいますが、孫策亡き後も江東では山越族による反乱は絶えず、その後を継いで70歳近くまで生きた孫権が崩御した後までも続いたのでした。
あの曹操も山越族の恨みを利用
数十年経っても孫家への恨みを抱き続けた山越族。元々揚州は自分たちのものだったのに、いきなり現れたかと思ったら全てを奪い去っていった孫家への恨みっぷりは凄まじいものだったようで、その恨みパワーは曹操の目に留まります。これを利用しない手はないと考えた曹操は山越族の頭目であった費桟・尤突に印綬を授け、孫権に対して反乱を起こすようにけしかけたのでした。
曹操にとって彼らを利用することにはメリットしかありません。勝ってくれたら最高ですが、負けてしまっても自軍へのダメージはゼロですからね。
呉と共に消えた山越族
呉への恨みによって一致団結していたイメージの山越族ですが、そのほとんどは早いうちに孫家に帰順し、漢民族と同化していました。時代が下るにつれて孫家を恨んでいた山越族もどんどん恨みを忘れて漢民族と同化。最終的に呉王朝が晋に呑み込まれると、山越族も歴史の舞台から姿を消しました。
三国志ライターchopsticksの独り言
呉と山越族とは一蓮托生の関係だったのかもしれません。
▼こちらもどうぞ
張嶷(ちょうぎょく)とはどんな人?異民族討伐のプロフェッショナルだった蜀の将軍【前編】