正史三国志の注にひかれている『益部耆旧雑記』によれば、蜀の丞相・諸葛亮が対魏遠征中に病気になり症状が重くなった時首都の成都から李福が勅使として派遣されました。
そのとき、李福は諸葛亮亡き後に政治を担うべき人物は誰であるかを諸葛亮にたずねます。諸葛亮が答えた後継者は蒋琬。その次は費禕。その次は、と李福がたずねると、諸葛亮は返事をしませんでした。三人目の後継者候補を挙げなかった諸葛亮。どうして質問に答えなかったのでしょうか。
この記事の目次
『益部耆旧雑記』の記述
『益部耆旧雑記』の記述を整理してみましょう。諸葛亮が重病であることを知った皇帝・劉禅は、李福を勅使として派遣し、お見舞いかたがた国家の大計について諮問してくるよう命じました。諸葛亮に会った李福は、皇帝の言葉を伝え、諸葛亮のことづてを聞き、成都へ引き返します。帰路について数日経ったところで、まだ聞かなければならないことがあったと気付き、急いで諸葛亮のところへ馳せ戻ります。すると諸葛亮はこう言いました。
「あなたが戻って来た理由は分かっています。
先日の会見で足りないところがあるとは思っていたのですが、
戻ってこられたら決断するつもりでした。
あなたの質問への答えは、公琰(蒋琬のあざな)です。」
質問されてもいないうちから答えを言ってますぜ。なんですかね、この鬼謀神算ぶりは。ちょっと話を盛ってやしませんかね。(盛ってなくて事実こんな人だったらちょっぴり嫌味……?)
李福 「閣下の百年の後を考えた場合、誰に大事を託すべきか、先日お聞きしそびれましたので戻って来ました。蒋琬の後は誰に任せるべきでしょうか?」
諸葛亮 「文偉(費禕のあざな)が継ぐとよいでしょう」
李福はさらにその次は誰がよいかをたずねましたが、諸葛亮は答えませんでした。
三国志演義の記述
三国志演義では、李福は諸葛亮との一回目の会話を終えて帰路についてから、数時間後に戻ってきています(『益部耆旧雑記』では数日後でした)。さっき会った時にはふつうに会話できた諸葛亮が、わずかの間に容態が急変して意識不明になっているので李福はびっくり。後継者候補を聞きそびれたと思って泣きわめきます。しばらくすると諸葛亮は目を覚ましました。
「あなたが戻って来た理由は分かっています」
「天子の御命により丞相の百年の後の大事を誰に任せるべきかを
お聞きしなければならなかったのに、粗忽にて聞きそびれたため戻って来たのです」
「私の死後に大事を任せるのは蒋公琰がよろしい」
「公琰の後は誰が継ぐべきでしょうか」
「費文偉がよいでしょう」
「文偉の後は誰が継ぐべきでしょうか」
諸葛亮は答ません。諸将が近寄ってみると、諸葛亮はすでに亡くなっていました。この文脈だと、話している途中に亡くなってしまったために三人目の後継者候補を言えなかったみたいに見えますね。三国志演義毛宗崗本にはこんな評が入っています。
費禕之后、漢祚亦終矣。先生所以不答。
(費禕が亡くなった後は漢が滅びるから先生は答えなかったのである)
いやいやまさか。全知全能の神でもあるまいに。費禕が253年に暗殺されて蜀が263年に滅びることまで予知したうえで李福の質問に答えなかったなんて、ありえへん。30年後のことなんて誰にも分かりませんて。(演義の諸葛亮なら分かるのかな……)
三人目の後継者候補を答えなかった理由
三国志演義だと亡くなってしまったから口がきけなくなっただけの沈黙のように見えますが、『益部耆旧雑記』の記述では勅使が戻るまで数日という悠長さであり、諸葛亮の容態はさほどせっぱつまっておらず充分しゃべれたけどその質問には答えたくないから黙っていたのだというふうに見えます。
意図的に口を閉ざしていたのだとすれば、それはどういう理由からでしょうか。普通に考えて、蒋琬や費禕に後を託せばその先は彼らがうまくやってくれるだろうという信頼感があったんじゃないでしょうかね。その先までも亡き自分がコントロールし続けようとするよりも、その時代を生きる彼らに臨機応変にやってもらうほうが現実的だと考えたのではないでしょうか。
正史三国志費禕伝の記述によれば、諸葛亮が南征から帰還した際、ほとんどの人は年齢・官位ともに費禕より上であったそうですから、費禕はずいぶん若いです。まだまだ何十年も働けます。いくらあっしが鬼謀神算の諸葛亮でも何十年後の費禕の後までは分かりませんや。(ましてや費禕がさあこれからという時に暗殺されることなど知るよしもなし)
諸葛亮の頭の中に後継者候補はあったのか
諸葛亮は返事をしませんでしたが、頭の中に後継者候補の名前はあったのでしょうか。何人かは期待できる若手の名前が頭にあったかもしれませんね。正史三国志で「蒋琬費禕姜維伝」というのがあるのを見てしまうと、姜維が三人目の候補者かしらと思ってしまいがちですが、費禕のあとに頼りになりそうな人が姜維たった一人だけだったということもないでしょう……。(姜維はのちに費禕と組んで北伐を行っていますけれども)
三人目の候補者名なんて明かせない
もしもはっきりと三人目の候補者名が頭にあったとしたら、なぜそれを言わなかったのでしょうか。それは、若い費禕の後を継ぐような人物なら今はまだくちばしの黄色いペーペーだからだろうと思います。これからどう転ぶか分かりませんし、いま名前を出してしまうと、なんとか彼をつぶして自分がその座についてやろうと企む先輩が彼をいじめるかもしれません。そういう圧力を跳ね返せるほどの年齢と地位と実績は、彼にはまだないのです。いずれ彼にと思っていても、そっと黙って大事にしてあげないといけません。
後継者なんて言う気なかった
諸葛亮は李福との一回目の会見の時に、いつか後継者候補を聞かれるかもしれんな~と思いながら自分からはその話題に触れず帰らせてしまっています。おそらく、諸葛亮は聞かれなければずっと黙っていたかったのだろうと思います。
正史三国志蒋琬伝によれば、諸葛亮はとっくの昔に皇帝への密奏で「私に不幸があった場合には後のことは蒋琬にお任せ下さい」と伝えてありますので、諸葛亮としてはそれで充分だと考えていたのでしょう。自分の次は蒋琬。後のことは彼がうまくやるサ。自分がいなくなった後の先々までコントロールしようとは思っていなかったのです。李福の質問に、二人目まではいやいや答えましたが、三人目の後継者を言わなかったのはまっとうな対応であったと思います。
異常なまでの依存体質
諸葛亮の対応は常識的なものであったと思います。丞相の次の次の次まで聞いてしまう李福が異常ですね。諸葛亮亡き後は誰に媚びを売るべきか知りたかったのでしょうか。自分が官僚生活を終えるまでずっと諸葛亮のオススメ人材に従っていけるというメドが立たなければ不安だったのでしょうか。未来を自分の手で切り拓くという気概が感じられませんね。
李福が就いていた尚書僕射という官職は九品官人法に換算すれば三品官に相当する高官ですから、蒋琬の次は俺が!ぐらいの勢いで意気揚々と成都に帰って行ってもよさそうなものなのに。諸葛亮の独裁政治によってすっかり依存体質ができあがってしまっていたのでしょうか。これが李福一人だったらいいですが、もし蜀の官僚の多くがそのような考え方でいたとすれば、このあと三十年足らずで蜀が滅亡したのも自然な成り行きなのかなという気がいたします。
三国志ライター よかミカンの独り言
丞相の次の次の次まで聞こうとする李福像は『益部耆旧雑記』に書かれているものですが、用件を聞く前に回答を言うという諸葛亮の鬼謀神算すぎて嘘くさい描写を見ると、『益部耆旧雑記』の信憑性を疑いたくなってしまいます。『益部耆旧雑記』は正史三国志の著者である陳寿の作だそうなので、嘘っぱちだとも言いにくいのですが……。李福の依存体質もなんだかおかしいし、嘘であってくれるほうがすっきりしますなぁ……。
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