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諸葛亮の兄弟、諸葛均!知られざるその[才能と生涯]

2024年7月3日


諸葛亮

 

三国志』といえば諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)!と言い切るくらいの人もいるほど、『三国志演義』での諸葛亮の活躍は鮮やかです。諸葛亮の桁違いな頭脳から生まれるあらゆる策略に魏も呉もおろおろするばかり。

 

孔明と司馬懿

 

 

死せる孔明生ける仲達(ちゅうたつ)を走らすなんていう言葉も生まれるくらい、諸葛亮の智謀は当時の人々を圧倒していました。そんな諸葛亮には2人の兄弟がありました。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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諸葛3兄弟

諸葛均

 

そんな諸葛亮、実は3人兄弟の真ん中の子。兄は呉に仕えていた諸葛瑾(しょかつきん)でした。諸葛亮の活躍に埋もれがちですが、兄・諸葛瑾も呉の重臣として名をはせていました。そして、弟の諸葛均(しょかつきん)この諸葛均ですが、正史『三国志』でも『三国志演義』でもあまり言及されていません。一体どのような人物だったのでしょうか。数少ない諸葛均の記述を追ってみましょう。

 

 

正史『三国志』に見える諸葛均

祁山、街亭

 

諸葛3兄弟は泰山郡の諸葛珪(しょかつけい)の子として生まれました。しかし、幼いときに両親を亡くしてしまいます。一番上の兄である諸葛瑾は独り立ちして揚州に移り住みましたが、まだ幼かった諸葛亮と諸葛均の2人は叔父である諸葛玄(しょかつげん)を頼ります。

 

しかし、諸葛玄も戦乱の渦に巻き込まれて亡くなってしまいます。そこで、諸葛亮と諸葛均は荊州に身を寄せることになったのでした。しかし、この辺りの記述は同じ『三国志』の中でも蜀書と呉書とで大きく違っているため、2人の幼少期が実際はどのようなものだったのかははっきりとはわかっていないようですね

 

劉備

 

 

その後諸葛均は兄・諸葛亮と共に南陽郡で暮らしていましたが、諸葛亮が劉備(りゅうび)に仕えることになった際に、共に出仕。後に長水校尉にまでなったのだそうです。

 

 

劉備に無視されてふくれ顔の諸葛均

 

 

諸葛均に関する正史での記録はこのくらいのもので、字すらも記されていません。歴史を動かしていた兄たちの陰に完全に隠れてしまっていたようですね。  

 

 

『三国志演義』に見える諸葛均

諸葛亮

 

『三国志演義』でも、動乱を避け、兄・諸葛亮と共に荊州に身を寄せていた諸葛均。兄が梁父吟を口ずさみながら畑仕事をしている横で、諸葛均も一緒に畑を耕して暮らしていました。正史では完全にモブキャラの一人として背景と化していた諸葛均ですが、『三国志演義』ではセリフが割り振られています。

 

劉表(りゅうひょう)の元に身を寄せ、何年もの時間をいたずらに過ごして嘆いていた劉備でしたが、いよいよ伏龍の噂を耳にして諸葛亮を訪ねます。何度訪問しても不在の諸葛亮。それでも劉備はめげずに諸葛亮の廬を訪れます。

 

孔明の自宅に行く登園三兄弟

 

 

幾度目かの訪問で、ようやく廬から人が出てきます。劉備は胸をはずませながら、「あなたが伏龍先生ですか」と尋ねます。しかし、この人こそが諸葛亮の弟・諸葛均だったのでした。「兄は留守にしています。」また空振り…。がっかりする劉備。

 

張飛

 

 

何度訪問しても不在ばかりの諸葛亮にいら立ちを募らせた張飛(ちょうひ)は諸葛均に八つ当たりで怒鳴り散らしはじめます。兄の代わりに頭を下げる諸葛均。劉備は張飛をなだめてもう一度出直すことにします。後日、再び廬を訪ねる劉備一行。再び応対する諸葛均。

 

「今日は伏龍先生はおられますか。」

「兄は昼寝をしています。」

 

昼寝だと!叩き起こしてくれるわ!とまた怒り出す張飛。しかし、そんな張飛をなだめて劉備は諸葛亮が目を覚ますのを待ったのでした。このように、三顧の礼で迎えられた諸葛亮。正史では諸葛亮と一緒に廬を出る諸葛均ですが、『三国志演義』では家の留守をするようにと命じられます。

 

曹操

 

 

その後は、荊州に侵攻した曹操(そうそう)が諸葛亮の家族を根絶やしにしようと血眼で探している旨を伝えられ、諸葛均は何とか荊州から逃げ延びたということが記されているだけです。劉備に仕えたかどうかは言及されていません。正史ほどではありませんが、『三国志演義』でも諸葛亮や諸葛瑾の陰に埋もれてしまっていますね。

 

 

諸葛均には家族がいた?

 

孔明の嫁選びなどという言葉があるように、孔明があまり美しくない女性を娶ったのは有名なお話。諸葛瑾が子のいない諸葛亮を案じて自身の子を養子に出したこともまた有名な話でしょう。このように、家族のことまでつまびらかに明かされている兄たちとは違い、諸葛均は謎だらけの存在です。

 

しかし、清朝の考証学者・張澍(ちょうじゅ)は『諸葛忠武侯文集』でそんな諸葛均に諸葛望という子がいたと記しているのです。さらに、奥さんは林氏もしくは習氏であるということまで突き止めたのだとか。ただ、この説には矛盾が多いために批判も多く、本当のところはどうかわかりません。それでも、幸せな人生を送っていてくれたらいいなと思わせる諸葛3兄弟の末っ子・諸葛均でした。

 

 

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