広告

司馬昭は本当に有能?それとも[親]の七光り?

2024年8月29日


 

司馬昭(しばしょう)は三国志後期に登場した武将で、父は諸葛孔明(しょかつこうめい)のライバル司馬仲達(しばちゅうたつ)です。最近では三国無双7や三国無双8にも登場するようになった為、司馬昭を知っている方もいると思います。

 

 

司馬懿と曹叡

 

さて司馬昭の父司馬仲達は司馬一族の中で軍事・政治において優秀だったためトップとして君臨し、曹丕(そうひ)曹叡(そうえい)ふたりの皇帝から信頼された将軍でした。

 

 

晋の司馬師は玉座に座る

 

 

司馬昭は父親が生きていた頃から、少しづつ要職に登って行き、司馬師(しばし)の時代には重職に就きます。

 

キングダムと三国志 信と曹操のはてな(疑問)

 

しかし司馬昭は自らの実力で重職に就くことができたのか。それとも父や兄がいたから重職に就くことができたのか。今回は司馬昭が有能だったのかどうか調査してみました。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


【誤植・誤字脱字の報告】 バナー 誤字脱字 報告 330 x 100



【レポート・論文で引用する場合の留意事項】 はじめての三国志レポート引用について



アニキを支えた司馬昭

 

司馬昭は兄司馬師と一緒に父親の司馬仲達を支えてきました。しかし司馬仲達が高齢で亡くなると司馬家の当主として司馬仲達の長男・司馬師が跡を継ぎます。

 

クーデターを成功させた晋建国の功労者 司馬師

 

司馬師は司馬仲達からその能力を認められ、彼のアドバイザー的な存在でした。そのため司馬家の当主になっても彼は自らの能力を遺憾(いかん)無く発揮していきます。さて司馬昭はアニキ・司馬師を一生懸命支えていました。

 

司馬昭が司馬師を支えたエピソードが残されています。司馬師は諸将のアドバイスを聞いて孫権(そんけん)死後の孫呉へ攻撃を仕掛けます。

 

司馬師と司馬懿

 

司馬師は孫呉へ派遣した諸将の見張り役として、司馬昭を軍監として戦場へ派遣。しかしこの戦いは孫呉の軍勢が魏軍を破ったため敗北に終わります。司馬師は魏軍の最高司令官だったため敗北の責任を取らなくてはなりません。

 

司馬師

 

そこで司馬師は自らの判断ミスで孫呉の軍勢に敗北した事を認め、諸将に対して「今回は私の判断ミスで負けて、みんなごめんねー軍監として派遣した弟と私が責任を負うから許して」と可愛く言います。すると諸将は「今回はしょうがないよ」と言って許してくれました。

 

司馬師

 

司馬昭はいきなり戦の責任を背負うことになりびっくりしたと思いますが、文句一つ言わずに敗戦の責任を背負うのでした。こうして敗戦の責任を被った司馬昭と司馬師が自らの非を認めた為、諸将は司馬師を信頼することになります。

 

 

眼球が取れる司馬師

 

もしこの時司馬昭が司馬師へ「俺のせいじゃないよ」と反対してたら司馬師の信頼は失墜し、魏の政権のトップに立つことができなかったでしょう。司馬昭がアニキを支えたエピソードをご紹介すると共に、司馬昭が司馬家を思って犠牲になる事の出来る人材だったことがお分かりになったと思います。

 

 

 

 

司馬一族の棟梁になった司馬昭はチョー有能!?

 

アニキを支えた司馬昭は司馬師が亡くなると司馬家の棟梁(とうりょう)になります。司馬昭は司馬家の棟梁になると三国志の世界に大きな変化が。その変化は三国の蜀が滅亡したことです。

 

降参する姜維

 

司馬昭は魏の政権が安定すると連年北伐を行ってきた(しょく)を滅ぼす計画を立てて実行。この戦いの結果、蜀は滅亡することになり、三国志は魏の一強状態に突入します。

 

三国志を統一した司馬炎

 

そして孫呉は司馬昭の長男・司馬炎(しばえん)率いる晋の総攻撃を受け、蜀滅亡から数年後に無くなり、三国志は終焉(しゅうえん)を迎え(しん)が約100年ぶりに中華を再統一するのです。この事を考えると司馬昭はかなり優秀な人材だったことがお分かりになるでしょう。そして司馬昭が父・司馬懿や兄・司馬師の引き立てで要職につけてもらったわけではない事がわかると思います。

 

有能なのに悪役イメージが強い司馬昭

 

司馬昭は蜀を滅ぼして三国志の世界を統一へ動かした有能な人物ですが、意外と悪役のイメージが強いんです。どうして司馬昭は悪役イメージが強いのでしょう。それは司馬昭が魏の皇帝を殺害してしまった為です。

 

 

皇帝を殺害した為に悪役になってしまった司馬昭

 

司馬昭は魏の皇帝を殺害してしまった為、悪役イメージが付いてしまいますが、司馬昭が積極的に皇帝を殺害してしまったのでしょうか。それは違います。司馬昭は自分の身を守るために皇帝を殺害してしまったと思われます。司馬昭時代の魏の皇帝は曹髦(そうぼう)でした。曹髦は司馬昭が権力を握ってやりたい放題やっていることに我慢できなくなり、司馬昭を殺害して魏の実権を取り戻そうと挙兵。

 

反対する賈充

 

司馬昭は曹髦が攻撃してきたことを知ると側近の賈充(かじゅう)らに皇帝軍を迎撃するように命令します。

 

曹髦の暗殺許可を出す賈充

 

賈充は皇帝の軍勢を迎撃するため攻撃を仕掛け、その結果、曹髦が討ち取られてた事でこの事件は終幕を迎えます。この事件を詳しく知りたい方はこちらを見てね。

 

曹髦(そうぼう)とはどんな人?曹植に匹敵する才能を持ち、

曹操に見劣りしない武略を持っていた為に、殺害されてしまった皇帝

 

この事件せいで司馬昭は悪役のイメージが付いてしまうのでした。

 

 

司馬昭が皇帝を殺してしまったのは自己防衛!?

 

この事件は元を正せば曹髦が司馬昭へ攻撃を仕掛けてきた事がきっかけで、曹髦が討ち死にしたとしても自業自得と言えるでしょう。さらに司馬昭を弁護するのであれば皇帝を殺害するメリットがありません。もし司馬昭が皇帝を殺せば司馬家に反感を抱いている勢力から糾弾されることになり、自らが不利になることが明らかです。

 

そのため司馬昭が積極的に殺害したとはどうしても思えず、曹髦軍を攻撃してうっかり討ち取ってしまったのが事実ではないでしょうか。しかしこの事情を知っている当時の魏の人々が少なく、後世にもこの事件などが原因で司馬家があまりいい印象が抱かれていなかった事もあり、司馬昭に悪役イメージがついてしまったと思われます。

 

 

三国志ライター黒田レンの独り言

 

今回は司馬昭が有能かどうかご紹介しました。レンは司馬昭がかなり有能な人物のように思え、自分の力で要職に就いたと考えます。

 

 

黒田レン

 

また司馬昭が司馬家の当主でなければ、三国時代を終わらせることができず、その後の中国史にもかなり大きな影響を与えていたでしょう。このように考えると司馬昭がかなり有能な人だったと思いますが、皆様はどのように思われますか。

 

参考 ちくま学芸文庫 正史三国志陳泰伝など

 

▼こちらもどうぞ

司馬昭(しばしょう)とはどんな人?三国時代終焉の立役者でもあり司馬懿の次男

 

 

  • この記事を書いた人
  • 最新記事
黒田廉(くろだれん)

黒田廉(くろだれん)

三國志が大好きです。オススメのマンガは曹操を描いた蒼天航路がオススメです。三國志の小説のオススメは宮城谷昌光氏が書いた三國志です。好きな食べ物はマグロ、ぶり、アジが大好きな猫です。

-外部配信