三国志の漫画や小説の大元になっている、正史三国志。蜀の遺臣である陳寿が編纂した歴史書です。
紀伝体と呼ばれる、主に人物ごとに記事をまとめる書き方をされており、各人物の紀や伝のあとには陳寿による人物評がついています。魏、呉、蜀のそれぞれの君主の評を見比べると、陳寿がさりげなーく蜀をひいきしている様子が見えてきます!
この記事の目次
魏の初代皇帝、曹丕の評がひどすぎる
魏の初代皇帝である曹丕の評は、下記の通りです。
文帝(曹丕のこと)は文学的素質を具え、筆を下せば文章となった。
広い知識をもち、記憶力にすぐれ、多方面にわたる才能を有していた。
もしこのうえに広大な度量が加わり、公平な誠意をもってつとめ、
道義の存立に努力を傾け、徳心を充実させることができたならば、
古代の賢君も、どうして縁遠い存在であったろうか。
これ、ひどい評だと思いませんか?
「褒められることは文学的素質、広い知識、記憶力、多方面にわたる才能だけ。度量が狭くて、不公平でよこしまで、道義の存立をおこたり、徳心が充実しておらず、古代の賢君から縁遠い存在である」って言っちまってますよ。なんでそこまでいじめるんだよぅ。ひどいや兄さん。
曹丕のパパ、曹操の評は大絶賛だが見せかけ
曹丕のパパ、曹操は、自分では皇帝になりませんでしたが、曹丕の即位によって武帝と追謚されました。曹操の評は下記の通りです。
漢末は、天下がたいそう乱れ、豪傑がいっせいに起ちあがった。
その中で、袁紹は四つの州を根拠に虎視し、その強盛さは無敵であった。
太祖(曹操のこと)は策略をめぐらし計画を立て、天下を鞭撻督励し、
申不害・商鞅(ともに戦国時代法家の思想家)の法術をわがものとし、
韓信・白起(戦術家)の奇策を包み込み、才能ある者に官職を授け、
各人のもつ機能を利用し、自己の感情をおさえて冷静な計算に従い、
昔の悪行を念頭に置かなかった。
最後に天子の果たすべき機能を掌握し、大事業を成しとげえたのは、ひとえに
その明晰な機略がもっともすぐれていたためである。
そもそも並みはずれた人物、時代を超えた英傑というべきであろう。
並外れた人物、時代を超えた英傑。大絶賛ですね。しかしそれは見せかけです。陳寿の本音は、曹操の徳をたとえる例としてあげた歴史上の人物、申不害、商鞅、韓信、白起の顔ぶれに表わされています。
曹操の評に込められた、陳寿の嫌み
陳寿が曹操の徳をたとえる例としてあげた歴史上の人物、申不害、商鞅、韓信、白起。申不害の最期については伝えられていませんが、他の三人の最期は下記の通りです。
商鞅:
変法(法律改革)を強行して秦をブイブイ言わせていたが、法が整うと困っちゃう人
たちから恨みを買い、逃亡したあげく、せっぱつまって挙兵し戦死。
遺体は車裂きの刑に処され、曝しものにされた。
韓信:
漢の建国の功臣だが、皇帝に嫌われ疑われて左遷され、疑われているから気をつけなくちゃと
謹慎していたところ、騙されて宮中に誘き出されて斬られた。
白起:
秦に仕えてしばしば大きな戦功をあげたが、宰相のねたみを買い、秦国に対しては
何の罪もないのに自害させられた。
いずれも、大きな功績をあげたにもかかわらず、最期は不遇のうちに不幸な亡くなり方をしている人たちです。曹操の徳をたとえる例としてこういう不穏な人物名を挙げ連ねたということは、陳寿の本音は、曹操がすごい人だったのは認めるけどちょっぴりけなしてやるぜっ、というところでしょう。陳寿は蜀の遺臣であり、曹操は蜀の初代皇帝・劉備の宿敵ですから。
呉の初代皇帝、孫権は名前呼び捨てで酷評
呉の初代皇帝・孫権は、名前を呼び捨てにされながら酷評されています。曹操も曹丕も、後で言及する劉備も、呼び捨てにはされていないのに……。陳寿の孫権評↓
孫権は、身を低くし辱を忍び、才能ある者に仕事をまかせ綿密に計略をねるなど、
越王勾践と同様の非凡さを備えた、万人に優れ傑出した人物であった。
さればこそ江表(江南)の地をわがものとし、三国鼎立をなす呉国の基礎を
作り上げることができたのである。
ただその性格は疑ぐり深く、容赦なく殺戮を行ない、晩年にいたってそれが
いよいよつのった。その結果、讒言が正しい人々の行ないを殄ちきり、
後嗣ぎも廃され殺されることにもなったのである。
子孫たちに平安の策を遺し、慎み深く子孫の安全を計った者とはいいがたいであろう。
その後代がしだいに衰微し、やがては国を亡ぼすことになる、その遠因が
孫権のこうした行ないになかったとはいい切れぬのである。
孫権の徳をたとえる例としてあげられている人物、越王勾践は、越が隣国の呉におされて落ち目だった時には恥を忍んで頑張り、後に呉を滅ぼして春秋時代の覇者になった人です。覇者になった後は疑り深くなり、不遇時代にずっと支えてくれた腹心に逃げられたり、忠臣を自殺させたりしています。陳寿は勾践を例にあげながら、呉を建国したのはすごかったけどそのあと疑り深すぎて全然ダメ、後代に災いの種を遺した、って言ってるんですね。
蜀の初代皇帝、劉備の評は心からの大絶賛
陳寿は劉備のことを呼び捨てにせず「先主」と呼んでいます。曹操親子は皇帝だから帝号で呼ぶし、劉備のことは陳寿が仕えていた蜀の二代目皇帝のパパだから先主と呼ぶんですね。ちなみに、正史三国志が正式な皇帝として認めているのは魏だけです。魏は漢から正式に帝位を譲り受けましたが、他の二国は自称皇帝ですし、蜀滅亡後に陳寿が仕えた晋は魏の後継王朝なので、魏を正統とせざるを得ないわけです。さて、劉備の評↓
先主は度量が広くて意志が強く心が大きくて親切であって、人物を見分け士人を
待遇した。思うに漢の高祖(漢の初代皇帝)の面影があり、英雄の器であった。
その国をまかせて遺児を諸葛亮(蜀の宰相)に託し、心になんの疑惑も
持たなかったこととなると、まことに君臣の私心なきあり方として最高のものであり、
古今を通じての盛事である。
権謀と才略にかけては、魏の武帝に及ばず、これがため国土もまた狭かった。
しかしながら敗れても屈伏せず、最後まで臣下とならなかったのは、そもそも彼(武帝)の
度量からいって、絶対に自分を受け入れないと推し測ったからで、単に利を競うためと
いうのではなく、同時に害悪を回避するためでもあったのである。
ほとんど大絶賛ですよね。欠点は一つだけ、権謀と才略が曹操に及ばなかったとありますが、その文脈の延長線上で曹操のことを度量が狭いとけなしつつ、劉備が蜀で粘って戦乱を長引かせたことをフォローしております。劉備の徳をたとえる例としてあがっている人物は、漢の高祖。漢を建国した偉いお人にたとえながら、手放しの大絶賛です。
歴史書の言葉遣いはすみずみまで要注意
陳寿の三国の主君の評:
曹丕は論外。曹操は申不害、商鞅、韓信、白起。孫権は勾践。劉備は漢の高祖。蜀ばっかりひいきしています。こういう意地悪な深読みは私の疑いすぎではなくて、中国の歴史書を読む場合のスタンダードなやり方です。例えば、春秋時代の歴史書『春秋』の最初のほうで、隠公が即位したことが明記されず「元年春王正月」とだけ書いてあることについて、三国志の時代によく読まれていた注釈書である左氏伝や公羊伝には、即位が明記されていないのは隠公が国を平定してから位を桓公に返そうとしているからであるというような解釈が書かれています。
本文だけ見ると「元年春王正月」とあるだけなのに、そこまでの背景を読み取らなければいけないという、そんな一文字一文字の使い方にまで歴史書は意味を込めて書かれているんやで、という伝統。こういう常識のもとに、中国の歴史書は書かれているからです。
三国志ライター よかミカンの独り言
正史三国志をお読みになる時は、ぜひ陳寿さんの一つ一つの言葉の選び方にまで注目して、彼がおおっぴらには言えなかった本音まで読み取ってみて下さい。曹操に関しては、文句のつけようのない人物であるのに、たとえに挙げる歴史上の人物のラインナップを細工することでさりげなーくけなしているところが、私はちょっとキュンとしました。
和訳引用元:ちくま学芸文庫 正史三国志
▼こちらもどうぞ
【衝撃の事実!!】正史三国志の作者・陳寿は孫権が打ち立てた孫呉を皇帝として認めていなかった!?