今回は賈クについてお話をしてみたいと思います。賈クは曹操陣営の中でも破格の待遇を受け、寵愛されてきた軍師の一人。しかしその過去には典韋や曹昂を討ち取るという、曹操軍に痛烈な一撃を与えた人物でもあります。
そんな賈クがどうして評価されたのか?ここでは賈クの生涯を振り返りつつ、それを考えていきたいと思います。
高い評価をされた賈詡
賈クは曹操の軍師、参謀と言われる存在でした。その評価は正史をまとめた陳寿をして「打つ手打つ手に失策なし」と言われるほどで、軍略、知略に高い評価を受けています。
賈クの凄い所は何と言ってもその戦略眼。彼が「止めておけ」と進言した戦は尽く失敗に……有名な赤壁の戦いでも、賈クは「時期尚早」「荊州を固めてから」と進言していますが、これは取り入れられることなく敗北となりました。
そんな賈クですが、実は曹操陣営に来る前までは董卓や張繡などの、つまり曹操の敵として働いていました。
特に張繡陣営にいる際には、曹操の大事な部下である典韋、後継ぎであったはずの曹昂を討ち取るという曹操陣営からすれば痛すぎる働きをしています。
曹操陣営でも高い評価をされていた賈詡
そんな賈クですが、曹操陣営に訪れていてからも冷遇されることなく、その才を振るってきました。曹操に信頼されていたのか、頭を悩ませていた後継者問題でも見事な進言をしています。そして77歳で死去。
この年齢から賈クは暗殺などではなく、無事に天寿を全うされたと思われます。
確かに曹操は才能のある者を愛し、重用してきました。しかしそれでも曹操陣営に多大なダメージを与えた賈クがここまで重用されたのはどうしてでしょうか?
一方で張繍は・・・
さて賈クと同じ陣営にいた張繍ですが、彼は曹操と敵対していたことから袁紹から味方になるように誘われるも、当時配下にいた賈クに「曹操と手を組むべき」と言われて曹操の下に帰順します。
当時は袁紹との戦いで背後を張繍に襲われることを恐れていた曹操はこのことを喜び、後々には外戚に迎え入れて厚遇しています。
しかし張繡にはその最期は自殺ではあったという説もあり、それは曹操の息子であった曹丕に「貴方は私の兄を殺したのにどうして平然と私の前に顔を出せるのか」と言われたことで不安になって……とも言われているように、その最期がどうあったか、不安と陰りを残す終わりになっています。このように張繡と賈クでその最期が大きく違いがあることに関して、賈クの立ち回りの細やかさが挙げられます。
過去のことから曹操陣営では目立たない働きをしていた賈ク
賈クは曹操の下に帰順してから、自らの行動に対して非常に気を使っていました。自分の立場を理解していたのか、有力者との婚姻を控える、交友関係を深入りしないなど、自分の立場が疑われないように細心の注意を払っていたようです。
このためか曹丕にも信頼されていたのか、221年に日食が起こった際に役人が「大尉である賈クを免職に」と訴えましたが、これに対して「天変地異を理由に弾劾してはいけない」と曹丕は詔勅を出しているように、張繡とは違って賈クを庇うような動きを見せています。
曹操が跡継ぎ問題で悩んでいた頃に賈クの助言で曹丕を後継ぎにしたのでその件で恩を感じていたのかもしれませんが、張繡との扱いを比べると賈クの信頼の高さが伺えます。
このため賈クは三国志ファンには処世術の達人とも言われますが、その背景には周囲から疑われないように気を使い、戦場だけでなく平時にも周囲に気を回していたことが分かりました。処世術とはただ優秀なだけでなく、周囲に気を回せる細やか、かつ視野の広さが重要だということが良く分かりますね。
三国志ライター センのひとりごと
その昔、賈クは曹昂や典韋を死に追いやった人物でもあるのにどうしてこんなに評価されたのか、と思いましたが、見てくと賈ク自身も自分の立場を良く理解していた、ということが分かりました。
そしてその上で、賈クは賈クなりの忠義を持っていたのでしょう。賈クは使えた相手に不義理をしていません。立ち回りの上手さだけでなく、仕えている相手には最大限に仕える、それが賈クの処世術だったのかもしれませんね。
参考文献:魏書賈ク伝 文帝記
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