劉備は蜀を制圧すると益州(えきしゅう)の名士や荊州(けいしゅう)時代から付き従っていた幕僚達に分け隔てなく官位を授けることにします。しかし一人だけ彼が気に食わなかったので、官位をさずけるかどうかためらった人物がいました。その名は許靖(きょせい)です。彼は劉備軍に成都城が包囲されている時、成都城からダイブして脱走しようと図っていたためです。
劉備はそのことを聞いて彼に官位を授けたくなかったのですが、法正(ほうせい)に説得されて許靖を優遇することになります。
法正は許靖の処遇について劉備へ「彼は能力は無いですが、名声は天下に轟いております」と述べております。しかし許靖は本当に名声だけしか取り柄がなかったのでしょうか。本当は何かしらの才能を持っていた人物ではないのでしょうか。今回は許靖が本当になんの取り柄もなかったのかどうか調査してみたいと思います。
汚職官吏を追放して新しい風を政権に吹き込む
許靖は汝南(じょなん)出身の人物で、董卓が政権を握ると彼の政権に参加。彼は漢陽(かんよう)出身の周毖(しゅうひ)と一緒に董卓政権の人事を司ることになります。彼らは汚職にまみれた後漢王朝の役人達を追放して、まだ人には知られていないが優秀な人材を政権に組み込んでいきます。
穎川(えいせん)の名士である陳紀(ちんき)・荀爽(じゅんそう)らを起用して政権に参加させ、各地に優秀な人材達を太守に昇進させて天下を安定させることにします。しかし彼らが任命した各地の太守が董卓を討伐するために挙兵。周毖は董卓の逆鱗に触れてしまい処刑されてしまいます。許靖は従兄が董卓討伐の計画に参加していたため処刑を恐れて董卓政権から逃亡。彼は中原に逃亡しますが中原では安心できなかったのか、後に会稽(かいけい)にまで逃亡することになります。
孫策を恐れて再び逃亡
許靖は会稽の王朗と親しく付き合っていたので会稽に逃亡するのですが、小覇王・孫策(そんさく)が江東を席巻して王朗を討伐。
許靖は孫策の武威を恐れて交州(こうしゅう)へ再び逃亡することになります。交州を治めていた士燮(ししょう)は許靖を匿ってあげたそうです。
関連記事:漢中征伐は一人の漆黒の天才軍師・法正の進言によって行われた
劉璋に招かれて益州へ
許靖は交州で数年を過ごすと益州のボスであった劉璋から招かれた事がきっかけで、益州に身を寄せることになります。彼は劉璋から広漢の太守に任命されることになるのですが、荊州の学者である宋仲子(そうちゅうし)なる人物が許靖をこのように評価しております。
彼は友人で劉璋に仕えている王商へ「許靖は独立の精神を持った優秀な人物で、君は彼に指南するべきである」と述べております。彼は交州の士燮に身を寄せている時に袁徽(えんき)なる人物が魏の荀彧(じゅんいく)へ「許靖は物事を計画する能力に優れており、ぜひ彼を招いて幕僚に加えるべきです。」と手紙で述べております。
上記二つのエピソードから考えて彼が名声だけしかない人物ではなく、しっかりと能力を持っていた人物である証左であると考えます。
三国志ライター黒田レンの独り言
レンが考えるに劉備が許靖を優遇したのは、彼が持っていた名声に加え人物を公平に評価して優れた人物を抜擢する能力に秀でていたからこそ、劉備は法正の進言を聞いて彼を優遇したのではないのでしょうか。
また彼はいろいろな人から尊敬されており、蜀の諸葛孔明や魏の陳羣(ちんぐん)、王朗、華歆(かきん)などから敵味方に分かれていながら手紙のやり取りをしていたそうです。このように考えると名士の中でもかなり上位にあたる人物であり、能力もそれなりに高かったことが伺えると思うのですが、皆さんはどのように思いますか。
参考 ちくま文芸文庫 正史三国志蜀書 今鷹真・井波律子著など
▼こちらもどうぞ