三国志には数多くの人物が登場します。その中には、メジャーな人物の陰に隠れてあまり表に見えてこないマイナーな人物も当然存在します。
そんなちょっとマイナー? な武将を紹介する企画、今回は劉備に仕えた軍師、法正(ほうせい)を紹介します。蜀成立の立役者であり、あの人材収集マニアの曹操をして
『自分は多くの人材を集めたが、なぜ法正を手に入れることができなかったのだろう』
と嘆かせたとされる法正ですが、その性格は実は……?
劉璋を見限り劉備を招く
法正が劉備の配下となったのは、劉備による益州(蜀)攻略の最中でした。二十歳の時に故郷で飢饉が起きたことをきっかけに、法正は友人であった同郷の孟達と共に益州を治めていた劉璋に身を寄せました。劉璋は法正を起用はしたものの、あまり重用しようとはしませんでした。
法正はそんな劉璋を『大きなことを為す器ではない』と考え、友人の張松と共に劉備を益州に迎え入れることを画策しました。劉備の成都攻略の際、補給物資の少ない劉備軍の弱点を見抜き、劉璋に焦土作戦(しょうどさくせん)防御側が自国内の攻撃側に利用されそうな物資や施設を焼き払い、相手の疲弊を待つ作戦)を進言したものがいました。
それを知った劉備は、軍師として同行していた法正に対応策を相談します。
すると法正は『劉璋には、自国民を虐げる焦土作戦を実行するだけの度量はありません』と進言。彼の思惑通り、劉璋は非情な焦土作戦を実行することはできず、劉備軍に成都が包囲されると降伏しました。
夏侯淵を打ち破り、劉備の漢中王即位に貢献する
劉備が益州攻略にかかりきりになっている最中、曹操軍は益州の北にあたる漢中を攻略し、支配下においていました。漢中は益州北方の出入口にあたる土地で、ここを曹操軍に抑えられることは劉備にとって極めてゆゆしい事態でした。
法正は曹操軍の内情を観察し、漢中の防衛を任せられたのが夏侯淵と張郃の二人だけだと判明すると、劉備に漢中攻略を進言、自らも軍師として従軍します。初戦こそ配下の武将を討ち取られて苦杯をなめさせられた劉備でしたが、法正の作戦に従い形勢逆転、夏侯淵を討ち取ることに成功します。
敗戦の報を聞いた曹操は、その作戦の立案者が法正であったことを知って『そんなことだろうと思った。劉備にこのような見事な作戦を立案することはできないからなと語ったと言われています。
また、人材マニアとして知られる曹操は法正について『私は多くの人材を集めて来たが、なぜ法正を手に入れることができなかったのか?』と感想を述べたとされています。
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建国の功臣、しかしその性格は最悪
軍略家として、また政治家としてもその才能を高く評価されている法正ですが、人間的には最悪の人物であったとされています。
法正はとにかく執念深く、恨みを抱いた相手にはどんな手を使ってでも報復することで知られていました。
劉備によって益州が奪取されると、法正はその威を借りて、過去に恨みを抱いた相手や上司を次々と捕縛、処刑していきました。もちろんそれは、法律的根拠のない、文字通りの私刑です。
孔明に法正を止めて欲しいと訴えるが...
見かねたある人物が法正を処罰すべきであると孔明に訴えますが、孔明は『法正殿の功績を考えるとそれはできない』と答え、訴えを退けました。
孔明は法正が性格的には自分とは真逆であることを知っていましたが、仕事の上では互いに協力しあう関係でした。それほど、法正は才覚にあふれた人物であったと言えるでしょう。
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