7世紀末〜10世紀初め、中国大陸北東付近に存在したという、謎多き「渤海国」。その建国史の二回目のお話です。どうぞご覧ください。
8世紀初頭、初代王「大祚栄(だいそえい)」の時代に、東アジアの覇者「大唐帝国(唐)」の「玄宗皇帝」から「渤海郡王」というお墨付きをもらって、その存在を周辺諸国に認められたのでした。地盤固めが出来たという時期でした。
ただ、唐の玄宗皇帝にとっては、それは、北方の脅威に備えるためだったと言えるでしょうか。つまり、遊牧民族の連合国家の「突厥」に対抗するために、渤海国を味方につけようとしたということです。
領土拡大を目指す渤海国
しかし、その突厥の内部に異変がおきます。716年、突厥の君主の「カプガン可汗」が、モンゴル高原にて、敵対していた勢力に不意に 襲われて急死するのです。すぐに突厥の内部対立が起き、混乱します。中国北方の国々は一斉に唐帝国に従う事態になりました。渤海国内部でも、大きな動きがありました。
719年に、初代王・大祚栄が逝去し、長子で長男の「大武芸」が王位を継承したのです。
2代目の「武王」と呼ばれた大武芸の時代への突入です。好戦的な王だったようで、対外政策には積極的で、幾度も戦争にも出ていきました。
玄宗皇帝との対立
一方、唐の玄宗皇帝は、突厥が一時的に弱体化し、北方からの脅威がなくなったことで、周辺諸国に強気に出る策をとったようです。大武芸の方も、強気に領土拡大を目指していました。ただ、大武芸の策は北方へと、唐帝国の領域の中心部を避ける方向を目指していました。
【黒龍江(アムール川)】付近の地域に居住していた種族の「北部靺鞨(黒水部)」を狙ったのです。すると、北部靺鞨は、唐に援助を求めたのです。このあたりから、唐と渤海国の対立が深まっていきます。
>>>謎多き渤海国はどのように建国されたのか? 武則天も渤海国と関係していた?
こちらもCHECK
-
謎多き渤海国はどのように建国されたのか? 武則天も渤海国と関係していた?
続きを見る
兄弟対決
ただ、同時に、渤海国の内部でも対立が生まれたのです。つまり、武王「大武芸」と、その弟の「門芸」との対立です。実は、弟の門芸は、以前、父王・大祚栄の命で、人質として、唐帝国の都「長安」に送られ、宮中で皇帝(当時の皇帝は「中宗」【705年頃〜710年】)を守衛する役職につき、幾年も過ごしていた経験があったのです。
ということは、その頃に、門芸は、若き青年時代の(皇帝になる前の)玄宗皇帝こと「李隆基」と、会っていた可能性は高く、交友関係にもなっていたのでは?とも想像してしまいます。そのため、親唐派になっていたと言えるでしょうか。これは、唐帝国側の目論みが成功した形か?と言えそうです。それでは、兄弟対立の経緯を話します。まず、兄・大武芸と弟・門芸との間で、唐との外交政策についての意見対立が生まれます。門芸は、唐との対立を避けるようにと、兄王の大武芸に忠告しますが、退けられます。
門芸は兄と絶縁し、唐へ亡命することになったのです。ただ、もう少し詳しく話すと、亡命した原因は、外交政策に関する意見の違いだけではなかった、というのが近年の研究成果です。実は、兄弟による王位継承を巡る対立があったらしいのです。さらに、周辺諸国の国際情勢の変化も関係していたのです。唐に対して、再度、反旗を翻す勢力が出てきたというのです。
つまり、「契丹」や諸勢力が盛り返してきて、「突厥」と組むという事態も出てきたのです。渤海国だけが、唐へ牙を向いたという訳ではなかったのです。
>>>契丹民族の独立までの道のりと初代皇帝・耶律阿保機の略奪戦略とは?
こちらもCHECK
-
契丹民族の独立までの道のりと初代皇帝・耶律阿保機の略奪戦略とは?
続きを見る
二国間の交渉だけでは済まない、もう戦争は止められない事態になっていたのでしょう。そして、親唐派だった門芸は、当然、渤海国内には居られず、唐へ亡命したのです。大武芸は、王への反逆の意志のあった門芸を殺すようにと、唐の宮廷へ書状を送ったようです。玄宗皇帝は、当初から唐へ味方する意志を示していた門芸を、殺すことはできず、南方の辺境の「嶺南(れいなん)※」地域への流刑とも取れる措置にしたのです。
【※嶺南=「現在では、広東省、広西チワン族自治区、海南省の全域と、湖南省、江西省の一部にあたる。」当時は、高温多湿で病も蔓延しやすく、命を落とす者が多かった地域と言われています。】
大唐帝国包囲網で戦争勃発!
まず、732年の春、「契丹」と諸勢力の連合軍と唐帝国軍が激突し、契丹連合軍が、唐帝国軍に大敗します。このときの戦闘には、渤海国は参加していなかったのですが、形勢が渤海国にとっては不利となったのは確かでした。そこで、732年の秋、渤海国の大武芸は、先制攻撃を唐へ仕掛けることにしたのです。
山東半島北岸「登州(とうしゅう)」と呼ばれた地区の、唐帝国の基地を襲撃し、渤海国軍が勝利します。その勢いに乗じて、周辺諸国が渤海国の味方となります。今度は、契丹が中心となり、突厥や諸勢力と共に、渤海国軍も参加し、唐帝国軍との一大決戦に臨むのです。これは「馬都山(ばとさん)の戦い」と呼ばれています。渤海国軍は、船にて海上を移動し、戦闘に臨み、唐帝国軍に勝利します。しかし、唐帝国側は軍勢を立て直し、朝鮮半島の「新羅」を味方につけ、渤海国領内に侵攻してきたのです。
733年の冬のことでした。しかし、その年の冬は、大雪が周辺に降り注いだようで、そのために唐と新羅の連合軍は、兵力の大半を失ったのです。神風ならず、「神雪」か「冬将軍」とも言える天候が味方したおかげで、渤海国の大武芸は、危機を脱したと言えるのです。戦後、唐の玄宗皇帝は一定の距離を置いて、渤海国を牽制するようになります。すると、すぐに中国北方で異変がおきます。遊牧民族帝国の「突厥」の君主だった「ビルゲ可汗」が毒殺されたのです。すると、再び突厥の内部争いが勃発します。
直ぐに、唐帝国は、周辺諸国の制圧に乗り出し、契丹と諸勢力は服属します。渤海国もそれに習い、唐へ遣使し、謝罪の意を示したのです。それを唐の玄宗皇帝は受け入れました。捕虜交換が行われ、関係修復されたと伝わっています。玄宗皇帝にとっては、先の戦闘で、大雪のために多くの兵力を失った痛手が響いていたのでしょうか。渤海国は敵に回さない方がよい、と意識したということかもしれません。ただ、その時点で、渤海国王弟の門芸が、唐の領国内で存命であって、それが気に入らない大武芸は、刺客を差し向けたようです。しかし、玄宗皇帝が仲裁し、事は収まったと言われています。
結果的には、渤海国は、「北部靺鞨」と言われる種族の大半を支配下に入れ、彼らが住む地域【黒龍江(アムール川)】付近にも強い影響力を及ぼすことになり、実質的に領土拡大を実現できたのです。周辺諸国の勢力や大雪という自然の脅威をも味方につけ、勝利をおさめたのです。天運を味方につけた渤海国の大武芸だったのです。さらに、初めて日本への遣使が送られたのも、大武芸の時代なのです。その後、日本との交易は頻繁となり、深い文化交流も行われたのですが、それは、又の機会に記していきたいと思います。
>>>渤海国とはどんな国?謎の王国・渤海国の建国までを分かりやすく解説
こちらもCHECK
-
渤海国とはどんな国?謎の王国・渤海国の建国までを分かりやすく解説
続きを見る
おわりに
武王とも呼ばれた「大武芸」は、領土拡大の成功によって、渤海国の存在感を強めましたが、在位19年目の738年に、その人生に幕を下ろしました。その後を継いだのは、大武芸の長子であり長男の「大欽茂」でした。渤海国が文化国家として最盛期を迎えた時代に突入していくのです。それでは次回は、「文王」の異名を持った、三代目の渤海国王・大欽茂についてお話したいと思います。お楽しみに。
【主要参考書籍】
・WEBサイト『世界の歴史まっぷ』より「渤海国の地図」
・『渤海国の謎』(上田雄 著 / 講談社現代新書)
・『渤海国とは何か (歴史文化ライブラリー)』(古畑 徹 著 / 吉川弘文館 )
・『隋唐帝国』(布目 潮渢 著 / 栗原 益男 著 ・講談社学術文庫)
・「南」の成功体験「北」に移植狙う~黒竜江省黒河【『日経ビジネスオンライン』より】
>>>【渤海国の謎に迫る】なぜ渤海国は謎の王国になってしまったのか?
こちらもCHECK
-
【渤海国の謎に迫る】なぜ渤海国は謎の王国になってしまったのか?
続きを見る