渤海国と日本はとても良好な友好関係を築いていたと伝わっています。始まりは、二代目国王・大武芸の代でした。727年、大武芸は日本へ使者を派遣したのです。
日本では、平城京に都があり、聖武天皇の代でした。最初にアポイントを取ったのは渤海国側だったということです。どのような目的で日本に近づいたのでしょうか?詳しく見ていきましょう。
敵の敵は味方か?
率直に言いますと、交流が始まった発端は、戦争であり、軍事同盟目的の交流であったのです。あくまで、渤海国側の都合により、始まった友好関係でした。渤海国にとっては、当時は対立関係だった、「唐帝国」や朝鮮半島の「新羅」への牽制のために、日本を後ろ盾にしたかったと考えられています。しかし、渤海国からの初めての使節団の派遣は、使節団にとっては命懸けでした。
つまり、道中は、日本海を渡ることになるのですが、冬の季節風や海流に流され、やっとのことで「出羽」地域北部(秋田県北部から青森県日本海側)に漂着したものの、現地の民に使節団の多くが殺されたというのです。20数名の使節団の内、生き残ったのは8名ほどだったようです。数名の使節団で命からがら平城京へと入ったのです。
さらに、不幸だったのは、使節団が乗ってきた船は、日本海の荒波により損傷が激しかったのです。そのため、到着した渤海国の使節団は、帰る船がなかったというのです。それで、日本側に新造してもらい、さらに送りのための使節を付けてもらって、渤海国へと帰っていったというのです。日本側としては、船を新造した上で、送りの使節団もつけなければならなかったのです。その使節団は渤海国と日本を往復したのです。
そして、その日本使節団が渤海国から戻ってくるときは、渤海国の使節団を乗せて帰ってくるという事態もあったのです。船のシェア利用という、現代にも通じる考え方でしょうか。このようなケースが計15回ほどはあったと確認され、平安初期(810年頃)まで続いたようです。以降は、渤海国側の造船技術や航海術が格段に進歩したため、シェア利用のようなことは、なくなったようです。それとともに、渤海国から日本への一方通行の遣使が行われるようになります。
玄宗皇帝が切っ掛けか?親密になる日渤関係
さて、時を少し戻して、初めは唐帝国や新羅を意識した、軍事同盟目的の「日渤交流」でしたが、ある時期から、その目的に変化が訪れます。「唐渤戦争」(733年)の勃発です。この戦争では、唐帝国と渤海国が争ったのですが、戦後は、唐とは特に関係修復し、良好関係になるのです。
同時に、唐に臣従の意を示していた新羅への敵対心も薄まったようなのです。ということは、渤海国にとっては、日本との軍事同盟の意味が薄れたということです。しかし、しばらくして、唐帝国内で大事変が起きたことで、状況が変わってくるのです。その事変とは、もちろん「安史の乱」の勃発です。(755年〜763年)
安史の乱の情報は、渤海国使を通して、日本の大和朝廷にも伝わっていたと言われています。もしかしたら、反乱軍の勢力が日本へ侵攻してくるのではないかとの恐れが、大和朝廷の宮中でも蔓延していたようなのです。その証拠に、大和朝廷は、九州の太宰府を中心に、防衛強化のために動きます。さらに、日本と渤海国の間で、使節の往来も頻繁に行われ始めたのです。
日本と渤海国の双方にとって、反乱軍勢力の動きを戦々恐々と見守る必要があったでしょう。反乱軍が自国内を脅かす可能性があると考えたのでしょう。親密な軍事同盟の様相が伴い始めたのです。日本からの渤海国への遣使は、740年に2回目の派遣があってから、間が空いていたのですが、755年に安史の乱が勃発すると、以下のように頻繁に派遣されるのです。
757年に3回目の派遣
759年に4回目の派遣
760年 に5回目の派遣
761年に6回目の派遣
763年に7回目の派遣
このように頻繁に、しかも、その度に渤海国からも使節団がやってきたのです。安史の乱によって、軍事同盟の意味合いが強くなり、万が一、反乱軍が侵攻してくることがあれば、日渤が協力して対抗するという話し合いもなされたかもしれません。つまり、玄宗皇帝がまいた種が、日本と渤海国の縁を強めたという言い方もできるでしょうか。
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藤原仲麻呂の暗躍
ただ、その状況下、軍事同盟を上手く利用し、自らの権威を強化していたような存在もいました。それが「藤原仲麻呂」です。「藤原仲麻呂」とは当時の大和朝廷の中で権勢を誇った人物でした。少し説明しますと、当時の日本の大和朝廷の帝(みかど)は、「聖武天皇」で、その皇后の「光明皇后」に仲麻呂は取り入り、皇后を後ろ盾にして、宮中での権力を掌握していったのです。
聖武天皇の退位後、その娘の「孝謙天皇」の代で、以前から対立していた勢力を排除していきます。ちょうどその頃、唐で安史の乱が勃発していましたから、大和朝廷で危機感が増す中、国防という名目で、仲麻呂が先頭に立って仕切っていたようです。
その後、仲麻呂自身が、意のままに操れたという「淳仁天皇」を半ば強制的に誕生させると、「正一位・太政大臣」という宮中での最高官位までに登りつめたのです。さらに、その仲麻呂がさらなる野望を抱き、朝鮮半島の「新羅征討計画」を目論んでいたと言われています。
しかも、仲麻呂自身の名前も「恵美押勝【えみのおしかつ】」と改名し、これは「唐風」と言われる名付け方だったようです。自身を中国王朝の王族のように見立て、格上げを狙ったのでしょうか。ただ、仲麻呂の「新羅征討計画」には、時の大和朝廷の「上皇」であった「孝謙上皇」を始めとして、否定的な立場の者もいたようです。しかし、反対勢力も押し切り、淳仁天皇の許可も得て(仲麻呂が強引に押し通したかと思えますが)、太宰府で行軍式まで行わせています。
また、渤海国からの使節「楊承慶(ようしょうけい)」を、仲麻呂の私邸の「田村第」に招いて盛大にもてなすなど、渤海国からの軍事支援を得るために、手を尽くした様子でした。しかし、渤海国からの返事は、仲麻呂の期待に添わないものだったようです。
しかも、その数年後に渤海国から遣わされた使節は、「王新福」という人物でしたが、「文官」の立場でした。それまで「武官」が使節としてやって来ていたのに、急な変化がありました。軍事同盟としての日渤関係を改め、文化交流に舵をきった、という姿勢に見えてくるのです。なぜなら、その時点(763年頃)では、安史の乱は終焉に向かっていました。反乱軍は盛り返してきた唐帝国軍とウイグルの連合軍により鎮圧されました。ただ、その数年前761年には反乱軍同士が仲違いして、殺し合う始末にもなっていたのです。
反乱軍は崩壊したのです。渤海国側としては、日本との軍事同盟を強化する必要がなくなったということなのです。渤海国としては、すでにこの頃、朝鮮半島の新羅とは、良好関係を築いていたようですから、敢えて、事を構えようとは思えなかったのでしょう。
この頃の渤海国の王は、前回に紹介しました、3代目「大欽茂」でしたから、無益な戦をしないようにするという慎重さと格の高さを感じ取れるのです。結果、仲麻呂の思惑は、渤海国からの協力を得られず、頓挫します。さらに、藤原仲麻呂の勢力は、その台頭に不満を持つ勢力に、帝への謀反を企んだとの密告をされます。都(平城京)から一度は落ち延び、軍勢をかき集め、大和朝廷に対して反乱を起こしますが、大和朝廷軍によって、鎮圧され、仲麻呂は命を落とすのです。このあたりのエピソードを見ているだけでも、藤原仲麻呂と大欽茂の格の違いを見せつけられるようです。
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軍事同盟から経済文化交流へ
藤原仲麻呂の死によって、日本の大和朝廷側でも、軍事同盟を継続したいという勢力が消えたたため、渤海国との交流は、経済貿易の要素が強くなってきます。日本からは、絹の繊維が渤海国にもたらされ、渤海国の宮中では、珍重されたようです。
逆に、渤海国から日本へは、毛皮が大量にもたらされました。具体的には、渤海国からの最初の使節団が、「貂【てん】」の毛皮を300張も持参してきたというのです。当時も現代でも高価に取り引きされるものでした。以降は、「貂」に加えて、「虎」や「羆【ひぐま】」などの毛皮が大量にもたらされたのです。どれも貴重なものとして、日本の宮中では人気となり、それらの毛皮を身につけることが流行になったと言われています。
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おわりに
それでは、次回は、より深い文化交流が行われたという、日本の平安朝の時代に目を向けたいと思います。あの「学問の神様」も深く関係したようです。お楽しみに。
【主要参考】
・『渤海国の謎』(上田雄 著 / 講談社現代新書)
・『渤海国とは何か (歴史文化ライブラリー)』(古畑 徹 著 / 吉川弘文館 )
・『隋唐帝国』(布目 潮渢 著 / 栗原 益男 著 ・講談社学術文庫)
・WEBサイト『世界の歴史まっぷ』より「渤海国の地図」
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