本日は楊儀の死因を見ていきたいと思います。と、改めて楊儀伝を見直したり、他の伝を見比べてみたりしていると、何だかちょっと面白いことに気づいてしまいました。
実はその死因を見ていくと末期の蜀で「どう生きていくべきか」が分かっちゃった……!?てなわけで!今回は楊儀だけでなく、その周囲の人物たちも合わせて見ていくとしましょうか。
この記事の目次
楊儀っていったい誰?彼の三国志における役割
さて楊儀とは誰か?もしかしたら楊儀についてまだ良く知らないと言う方もいるかもしれませんので、ざっくりと。
楊儀は蜀の武将の一人で、諸葛亮の補佐を良くしていた人物です。事務処理に優れた才を持っており、丞相府の幕僚の筆頭として部隊編成の計画立案、軍需物資の確保などの重要な任務を任され、そしてそれらをきちんとこなせるだけの能力も持っていました。
諸葛亮は楊儀のその才を愛し、五丈原で没した際に遺言を託して諸将の指揮を任せ、全軍撤退を行わせ、楊儀もその最期の任を全うしました。ここまで纏めると非常に優れていた人物ですね。そんな楊儀の字ですが、威公と言います。この「威」には実は、「力で押さえつけ、人を恐れさせる」という意味があるのですが……。
楊儀の人物像と、その性格が招いていく結末への道
楊儀には優れた能力も備わっていましたが、同時にその性格には難があったようです。
狭量で自身の能力を鼻にかける所があり、それ故か魏延とは犬猿の仲でした。諸葛亮もこの二人の才覚を認めてはいるものの、彼らの不仲には終止頭を悩ませていたようですが……それは、諸葛亮が没した直後から決定的になります。
楊儀は諸葛亮の没後、その命を全うして撤退することにしましたが、魏延はこれを拒絶し、魏との交戦を主張し、楊儀の指示下に入るのを拒絶。
楊儀はこれに、諸葛亮の「魏延が命令に従わなくとも、構わず軍を進める(撤退する)ように」という言葉を守って魏延を置いて撤退。
怒った魏延は橋を焼いて楊儀の撤退を妨害しようとするだけでなく、劉禅に「楊儀が謀反!」と報告、楊儀も楊儀で「魏延が謀反!」と報告……何だか泥沼の御内揉めが始まってしまったのです。
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魏延との決定的な対立と、その果て
両名から上奏を受けた劉禅は、董允、蔣琬にどちらが正しいかと尋ねると、両者とも楊儀の肩を持ちました。どうでもいいけどここで黄皓に尋ねるとかしなくて本当に良かったと思いませんか?余談ですね。
結果として魏延は配下にも離反され、子供たちと漢中に出奔しようとして馬岱に斬られてその生涯を閉じます。ここで終わればまあ魏延は良くないね……で終わるのですが、ここで楊儀の性格の悪さが出てきます。楊儀は届けられた魏延の首を踏みつけただけでなく、「知恵足らずめが!もう一度悪さができるものならやってみるんだな!」と言ったと……どうにもこの最期の魏延への追い打ちが、楊儀の評価をし辛くしてしまいますね。こういう所を諸葛亮は心配していたのでしょう。
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楊儀の死、その人生の終焉
長年不仲だった魏延は始末した、自身は諸葛亮から五丈原で戦の処理を任された、それだけじゃない、今までだって頼りにされてきていた……楊儀は、自身こそが諸葛亮の後継者であると思っていました。しかし、実際に選ばれたのは蔣琬。要職を任される蔣琬に対し、期待とは裏腹に何の職務もない自身と言う現実に、楊儀の不満は爆発したのでしょう。ある日、楊儀は費イにこう愚痴ってしまいました。
「あの日、丞相が亡くなった際に、軍を率いて魏に降っていたら」
この言葉は費イによって劉禅に密告され、役職も解任、庶民に落とされ流罪となりました。しかしそれでもなお楊儀は流罪先から他人への誹謗を上書を送り続けたため、ついに拘束。拘束された楊儀はそのまま自殺したと言われています。
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考えられる楊儀の死因とそこに至るまでの経緯
順当に考えるならば、己の犯した過ちの大きさに慄いて自殺、もしくは高いプライドと想像していた未来との剝離が大きすぎたために絶望して……と言った所でしょうか。もしくはその性格からあちらこちらで恨みをかっていて、庶民に落とされ拘束までされたために……というルートも考えられますが……楊儀は能力はあっただけに、その性格がその才能に限界をかけてしまった、という印象を受けますね。
さて死因だけを考えるなら記述通り、自死が楊儀の死因と言えます。ただこの楊儀の死から、末期の蜀でどう立ち回っていくべきであったか、それを考えてみたいと思います。そのキーパーソンとなるのが、費イです。
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楊儀の死と、魏延の死、両名に関わっている費イ……
楊儀の死はある意味費イの密告が原因……いや自業自得なんですが、まあ大まかに言うと費イの密告が繋がってくるでしょう。この費イですが、実は以前から仲が悪い魏延と楊儀の仲裁を度々していました。
また諸葛亮の死の際に、楊儀から魏延の意向を探ってくるように言われ、そこで魏延が楊儀の指揮下に入る意思はないと知り……という話なのですが、このため費イは魏延の失脚にも楊儀の失脚にも関わっていた、とされています。更に言うならば、魏延と楊儀がいなくなったことにより、その後は費イはかなり出世するのですが……これは費イの壮大なブラックストマックフラグ……!?寧ろ両名の死因は政争ではなく、費イだった!?
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末期の蜀で、生きていけるだけの能力は楊儀にあったのか
と、話が楊儀ではなく費イに傾いてしまって申し訳ないですが、費イ自身も諸葛亮に高く評価されている人物です。
その能力を裏付ける逸話として、仕事をこなしながらも遊興の方も欠かさなかった費イの後にその仕事を引き継いだ董允が、めちゃくちゃ真面目に仕事をしているのに一向に終わらず、費イと自身の能力の違いを実感して嘆く……というものがあります。
そんな費イも、周囲から幾度も注意されていたにも拘らず迂闊さから殺害されています。
魏延も、費イも、そしてもちろん楊儀も、それぞれ諸葛亮が蜀に必要!と思うような優秀さを持っていました。しかし三者三様にどうにも迂闊さと言うか、他人の忠言を聞き入れないと言うか、自分自身の足元が良く見えていない感じを覚えますね。そういう意味では盲目的に北伐を繰り返す姜維の方が、ブレなさ、安定を感じないでしょうか。末期に近い国だからこそ、その中で生き抜くには自分自身にこそ安定さが求められているのではないか。
楊儀の伝を見直して、その死を振り返って、ガラにもなくそんなことを考えてしまいました。……というか相手が費イだからってあんなこと漏らしたらどんな国でも一発アウトだよね、楊儀……。
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しかしまあ、蜀は基本的に人材不足が否めない(夷陵の戦いで更に加速)ので、そんな蜀では「ここでこそ自分は輝ける……いや、自分はここに必要な存在!!」ということを強く感じて、そこから足元が揺らいでしまうのかもしれませんね。
人材が過剰気味でも、人材不足でも、自分の立ち位置をしっかりと見極める、それが末期の蜀だけでなく、どこでも生きていける上で重要なのだと……なぜか楊儀を見ていて思い直した、筆者なのでした。ちゃぷん。
参考:蜀書楊儀伝 魏延伝 費イ伝
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