今回取り上げてみたいのは韓玄とその知られざる死因です。知っている人は知っている、知らない人は本当に知らないかもしれない、三国志の武将の一人韓玄。その死因はぶっちゃけて話しますと、謎に包まれています。
どうして謎に包まれているのか?そもそも韓玄とはどんな人物だったのか?韓玄は後の世でどんな評価をされて、どんな扱いをされているのか。そう言ったことも同時に話していきたいと思いますので、よろしくお願いします。
この記事の目次
韓玄とは誰か?その生涯と業績、三国志における韓玄とは
さて韓玄とはいったい誰か、歴史書を見ていきましょう。韓玄については蜀書にその記述が少ないながら散見しています。
まず「208年に曹操が荊州を制圧したときの長沙太守だった」、そして「209年に劉備による荊州侵攻の際も長沙太守をしており、この際に劉備に降伏している」……終わりです。え?と思うかもしれませんが、三国志における韓玄の記述はこれだけです。死因も何もなく、その後の動向も分からない。
一応、黄忠の元主君で、その黄忠はその後、劉備陣営で活躍することとなりますが。三国志において韓玄とは、長沙太守であり、黄忠の元主君、それだけなのです。
韓玄の死因に関する情報は?死亡時期と背景を、口伝から考えてみる
このように殆ど情報がない韓玄ですが、現代の長沙市天心区に何と韓玄の墓が残されているのが発見されています。また清の時代には韓玄は怨霊となって怪異を成す存在として祀られたとも伝えられています。これらの情報と、三国志における「劉備に降伏した」という記述も合わせて考えると、韓玄の死亡時期は呉による荊州侵攻の際ではないかと思われます。
戦死したからこそ墓が建てられ、もしくは怨霊となって祀られた……と言う風には考えられないでしょうか。まあもしかしたら普通に老衰とか病死の可能性もありますが……黄忠の元主君なのに、割と扱いは軽めな印象を受けますね。
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韓玄の死後の評価……印象はよろしくない???
ではそんな韓玄の死後の評価はどのようなものでしょうか。と言っても、歴史書を見る限りではそもそも評価のしようがない人物、という印象しかないでしょう。
敢えて良い点を見つけようとするならば、黄忠の元主君である、その黄忠が劉備陣営に行くきっかけになった、曹操が何だかんだ長沙太守のままにしていたから、そこまで無能ではないだろう……このような評価となるかと思います。
と、言った所で何ですが、あるイメージから韓玄の評価はよろしくない、というかぶっちゃけ悪人のイメージが強いのでは?それについては次で話しましょう。
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作品やメディアに取り上げられる、三国志演義での韓玄
その理由が、三国志演義での韓玄です。正史三国志に出番は殆どない韓玄ですが、三国志演義ではかなり印象が深くなっています。ただし、それは決して良いものではありません。
黄忠の元主君という点は同じですが、黄忠と関羽のやり取りを見て疑心を抱いて黄忠を処刑しようとする、その際に食客になっていた魏延が黄忠を救出して民衆を扇動、暴虐の人物だった韓玄に民衆はクーデターを起こし、韓玄は殺害されます。
後に黄忠は元主君である韓玄を手厚く埋葬したとされますが……これはどちらかというと「あんな扱いをされたのにさすが黄忠!」という印象で、寧ろ韓玄の良い印象には繋がらないので、あくまで韓玄は悪人のまま退場します。因みになぜか、魏に仕えた韓浩の兄という謎の血縁設定が生まれていますが、これは後程。
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韓玄と三国志、関係と重要性と、その影響
さて韓玄の三国志での役割は、ある意味、黄忠を劉備に引き合わせた所で終了していると言えるでしょう。それ故に、その後、どうなったかまでは記録されていません。しかしこのたった一つとも言える役割は、三国志演義では最大限に注目されることとなりました。何故ならば三国志演義では「物語」が重要となります。
三国志演義では後に五虎将軍とまで上り詰める、定軍山のキーマンにして老いて尚益々盛ん、黄忠が如何に劉備と出会い、そうしてその仲間の一人として迎え入れられるか。
そうして同時に、諸葛亮にとっても大きな出会いとなる人物、魏延の加入。これらが「韓玄を悪役」とすることによって話に重厚さが出たのです。
また劉備や関羽の主君として、武人としての高潔さも描くことができる……ある意味、韓玄を取り巻く文化が、韓玄というキャラクターに影響した例と言えます。その死さえも、魏延の加入、黄忠の元主君への忠義として、言い方がは悪いですが利用されたのが、韓玄という陣太と言えるでしょう。
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三国志演義では兄とされた韓玄と、韓浩の関係
ここで先に触れた、韓浩という人物についてもう一度。三国志演義では韓玄は韓浩の兄であり、兄の敵討ちに黄忠に挑んでくる人物です。
まあ実際に手を下したのは魏延なので、お門違いな敵討ちなのですが……しかし韓浩は定軍山で黄忠と厳顔の策略に翻弄され、逃亡し、更に一騎打ちを挑むもあっさり打ち取られる……黄忠と、嘗ての主君の決別のような演出で描かれます。これもまた物語では当然の、いいえ、にくい演出と言えるでしょうか。ただ、実際の韓浩は韓玄と全く関係の無い間柄です。
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韓玄に比べると……扱いが惜しい!!
因みに韓浩は夏候惇の配下で、夏候惇が敵に捕まった時には彼に代わって軍を取りまとめ、人質にされて尚屈せずに戦い、夏候惇を救い出して曹操に絶賛され、その後の魏における人質への対応の礼となる人物です。この韓浩は正史では漢中にはおりません。
優秀であるがゆえに漢中の防衛には韓浩を置いてはどうか、と周囲から進言されるも、曹操が「自分は韓浩がいないとダメだから……」と連れて帰られるほど、曹操に信頼された人物です。その韓浩を敢えて漢中に残ったことにして黄忠の見せ場とする、性の繋がりもバッチリ!……とはいえ、かなりキャラクター的に濃い韓浩をここでこんなに杜撰に処理されたのは、何とももどかしい気分。
それを考えると韓玄の方は魏延と黄忠の加入など、悪役とは言え三国志演義ではしっかりと人物像を想定されて描かれた人物ということになります。「扱いはよくはないが、正史よりは出番があるから……」歴史書と物語の剥離は面白くもあり、またほろ苦くもある。韓玄を通してそう確認する筆者でした。
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三国志ライター センのひとりごと
どうしても韓玄については正史での記録が少なすぎること、更に三国志演義では悪役な扱いであること。もっと言うとその弟にされた韓浩が実際にはかなり興味深い人物であること(ここ重要)も相まって、少々韓玄の話とは離れてしまいましたが、どうでしたでしょうか。
素人の空想ではありますが、敢えて韓浩をそのまま登場させて「こんな優秀な韓浩の兄があの韓玄!?」とかしたらもっと注目を浴びたのでは?
何なら黄忠がどうして韓玄に長く仕えていたかとか、曹操は長沙に来たことあるみたいなのに黄忠見落としたのか?とかの深掘りにもなったのではないかと、どうにもそんなことばかり考えてしまう筆者でした。皆さまが三国志演義を書いてみるとするならば、韓玄をどんなキャラクターにしてみたでしょうか。
よければちょっと、お酒のタネにでも考えてみて下さいね。どぼん。
参考:蜀書先主伝 黄忠伝
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