広告

荊州四英傑の一人『韓玄』はなぜ「羅貫中被害者の会」会員になってしまったのか?

2022年4月16日


 

はじめての三国志コメント機能バナー115-11_bnr1枠なし

三国志演義_書類

 

三国志演義(さんごくしえんぎ)はあくまで歴史小説であり、歴史を「正確に」綴ったものではありません。しかしだからと言って間違いではなく、正史三国志(せいしさんごくし)をベースとして読み物として読みやすく、そして面白く、分かりやすくまとめられてある書物と言っても良いでしょう。

 

馬良

 

ただし中には「正史と違い過ぎる」「扱いが酷い」「馬良はどうなったんですか!?」などなど、武将ファンによっては不満が出てしまうのも致し方ないかもしれませんね。今回はそんな正史と違う描き方をされている一人、韓玄について話してみましょうか。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


【誤植・誤字脱字の報告】 バナー 誤字脱字 報告 330 x 100



【レポート・論文で引用する場合の留意事項】 はじめての三国志レポート引用について



三国志演義の韓玄

韓玄(かんげん)

 

まずは三国志演義の韓玄(かんげん)についてお話しましょう。荊州(けいしゅう)長沙(ちょうさ)の太守として劉備(りゅうび)の敵として立ちはだかります。その性格は怒りっぽく、むやみやたらに人を殺し、好色で長沙の人々の中には娘をかどわかされた人も多く、民たちからは嫌われていました。

 

蜀の魏延

 

確かにこんな人物が太守やっているとか地獄でしかありませんね。横山(よこやま)三国志の魏延(ぎえん)の演説の「韓玄に比べて劉玄徳(りゅうげんとく)殿は良きお方だ!(だから長沙は劉備殿に渡そうぜ!)」という演説がそりゃもう効果的だったのは分かりやすい所です。

 

関連記事:謀反人のイメージは本当?魏延の逸話の数々!

関連記事:「裏切り者」のイメージがある魏延は劉備に深い忠誠心があった?

 

魏延特集

 

 

 

疑心暗鬼の心強し

五虎大将軍の黄忠

 

こんな韓玄の配下が、後に蜀の五虎将軍(ごこしょうぐん)となる黄忠(こうちゅう)です。

 

弓の名人・黄忠

 

黄忠は既に老将ながら関羽(かんう)と互角の一騎討ちを繰り広げますが、不運にも馬が足を取られて落馬。しかし関羽は黄忠に情けをかけ、黄忠もそれに気付きます。このため黄忠はこの恩を返してから再び一騎討ちに望むべく、関羽の兜の緒を弓で撃ちました。

 

ですがそんな武人の心のやり取りが通じない韓玄は、黄忠が裏切ったと思い込んで処刑を行おうとします。この後に魏延が長沙の民を率いて反乱を起こして韓玄は逆に殺され、長沙は劉備の統治を受け入れることになりました。

 

関連記事:老武将黄忠の活躍を見ていくと沸き上がる疑問点と考察

関連記事:老将黄忠の活躍に関羽も嫉妬?生涯現役を貫いた猛将を考察

 

蜀のマイナー武将列伝

 

 

※無関係です

 

因みに魏の武将に、韓浩(かんこう)という武将がいます。この韓浩、若い頃には村を襲ってくる盗賊に自警団を作って対抗、そこを見込まれ、後に夏候惇(かこうとん)に見出されて曹操(そうそう)に仕えるようになりました。後にどんどん出世し、漢中(かんちゅう)を手に入れた際には他の武将から「太守には韓浩殿が相応しいのでは」とまで言われます。

 

しかし曹操は「韓浩が傍に居ないのはいや!(超意訳)」となってお流れになったという曹操のお気に入り。ですが三国志演義では前述したように悪漢と言うべき長沙太守、韓玄の弟となっています。もちろん正史においては無関係ですので、そこの所は誤解なさらぬよう。

 

関連記事:三国志演義被害者の一人?曹操が頼りにした韓浩の逸話

関連記事:韓浩(かんこう)とはどんな人?曹操が常に手元に置きたがった男

 

はじ三Youtubeメンバーシップ

 

 

正史の韓玄

 

繰り返しになりますが、三国志演義では韓玄は悪漢君主の一言。むしろ魏延が反乱を起こしてやっつけてくれたことで読者は安心したのではないでしょうか。しかし、正史において韓玄は全く違う人物なのです。とは言え、善良な君主であった……というのもちょっと判断が難しい所で。

 

その記述は

「長沙太守だった」

「劉備に降伏した」

「長沙に墓がある」

としか分からず、韓玄がいつ亡くなったかも定かではないのです。

 

関連記事:韓玄(かんげん)とはどんな人?超逆風!長沙の民を法で縛り嫌われた能吏?

関連記事:韓玄(かんげん)とはどんな人?劉備に降伏した長沙太守

 

はじめての三国志Youtubeチャンネル2

 

 

韓玄の墓について

祟り神として民衆から恐れられる韓玄(かんげん)

 

さて韓玄の墓についてですが、現在も塚が残されています。その墓碑には、「漢忠臣韓玄之墓」と記されています。これをそのまま読むと漢の忠臣、となりますが、韓玄が漢の忠臣であったかどうかははっきりとせず、実際にも良い君主であった、怨霊だったので祀ったなど、様々な話が残されているそうです。

 

関帝廟で関羽と一緒に祀られる周倉

 

三国志で神となったと言えば関羽が有名ですが、場所によってはこのように、三国志演義では悪い太守のように描かれた韓玄が祀られているのは興味深いですね。

 

関連記事:軍神「関羽」は水滸伝にも多大な影響を与えた理由

関連記事:商売の神様・関羽のご利益って何?関帝廟はどんな人が参拝すべき?

 

英雄の墓

 

【次のページに続きます】

 

次のページへ >

  • この記事を書いた人
  • 最新記事
セン

セン

両親の持っていた横山光輝の「三国志」から三国志に興味を持ち、 そこから正史を読み漁ってその前後の年代も読むようになっていく。 中国歴史だけでなく日本史、世界史も好き。 神話も好きでインド神話とメソポタミア神話から古代シュメール人の生活にも興味が出てきた。 好きな歴史人物: 張遼、龐統、司馬徽、立花道雪、その他にもたくさん 何か一言: 歴史は食事、神話はおやつ、文字は飲み物

-三国志の雑学
-