曹操や曹丕に仕え、東晋の礎を築いた司馬懿。諸葛亮と五丈原で戦ったのは有名なできごとでした。
では、司馬懿の家柄や士官するまでにどんな生い立ちをたどったのでしょうか。ここでは司馬懿の若かりし頃にフォーカスしていきます。
司馬一族とは?
司馬とは姓ですが、その由来は商王朝の官職名にあります。商王朝時代に”夏官”という役職が存在したのですが、周の時代に入り”司馬”と改めます。
先祖に当たる”程伯休父”が戦功を立てたことから周宣王から司馬姓を賜ったのです。そして、時は流れ十二代前の先祖である司馬卯が河内郡に定住します。
司馬懿が生まれた時代背景
司馬懿は司馬防の次男坊で幼い頃からポーカーフェイスでした。常に胸のうちで策を巡らせ、うまく立ち回る子どもだったようです。そんな司馬懿が産声を上げたのは前漢の末、まさに戦乱の世でした。常に世の中を憂いていたと言われます。
南陽太守・楊俊との出会い
曹操の大臣であった楊俊は安陵令、南陽太守などの職に任命されます。南陽とは地名で太守は地位を指します。南陽郡のトップという意味あいで、現代の日本でいう県知事ぐらいの力を有しています。
楊俊もまた軍師として活躍し、主に南部方面を指揮しました。その善良として知られる楊俊が司馬懿に出会いうのです。まさに運命の出会いと言えるでしょう。それは司馬懿が二十歳にも満たない頃のことでした。
楊俊は司馬懿のことを”非凡な才能を持つ子どもである”と称賛しています。軍師として曹操から抜擢されていた楊俊の言葉だけに重いセリフです。この頃から司馬懿には軍略家としての才が備わっていました。
司馬懿は西暦179年に生を受け、251年に亡くなるまで72歳という長寿を全うします。楊俊は、その長い生涯を軍師として生きることを予見していたのかもしれません。
司馬懿の交友関係
司馬懿は曹操の策士として仕えていた崔琰や政治家の司馬朗とフレンドリーな関係を築いていました。身近に策士がいたのも将来の司馬懿に影響を与えたのでしょう。
傑出した人物とは、その周りの人たちも優れているのです。戦乱の世にありながら、このような環境が軍師・司馬懿を育てたのかもしれません。
司馬懿が士官するまで
西暦201年。司馬懿は”司空”の役職に就いた曹操に取り立てられます。
司空とは司馬、司寇、司士、司徒とならぶ古代中国の職位の一つ。5つあるので”五官”と呼ばれました。曹操の配下になりたくなかった司馬懿は病気と称して断ります。しかし、曹操はそれを信じず、もう一度部下を派遣して、様子を見に行かせます。
すると司馬懿は横たわり、身動き一つしなかったそうです。
西暦208年。曹操は何としても司馬懿を連れてこようと”文学掾”を遣わします。強硬手段に出た曹操に恐れをなした司馬懿は、ついに折れるのです。最初の接触から7年の歳月が流れていました。
7年かけてでもヘッドハンティングしたいと思った曹操は、司馬懿の才覚に気付いていたのでしょう。もしかしたら、曹操の策士だった崔琰と司馬懿が交流を深めていたのは曹操に取り立てられるためだったのかもしれません。
こうして司馬懿の軍師としての歴史が幕を開けたのです。
もし曹操が司馬懿をヘッドハンティングしなかったら…
ここからはあくまでも推測ですが、諸葛亮も21世紀に至るまで名を残すことはなかったかもしれません。理由としてはライバルの存在として司馬懿があったからです。
軍師とは直に戦場に出向くことはありません。しかしながら、兵の数や攻城兵器などによって戦況を把握することができます。仮に相手の軍師が優秀であれば、なかなか攻め落とすことはできないはずです。
中国の習慣として、たとえ敵でも腕の立つ武将や軍師は戦った後に仲間に引き入れるケースがあります。旧日本軍が満州時代に使用していたビルを現在も中国政府が利用していることからも納得ができます。
三国志ライター 上海くじらの独り言
あまり知られていない司馬懿の生い立ちについて紹介しました。三国志では職位と人名が混ぜこぜになることもあると思います。現代の中国語を学んでも古代中国の職位までは、なかなか理解できません。一方で姓名に関しては詳しくなるので、三国志を機に中国語の世界に触れるのも乙なものです。
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