三国時代は荊州を魏・呉・蜀が争った時代といっても過言ではありません。そのため、荊州を巡る争いは曹操の跡を継いだ曹丕の代にまで及びます。
ここでは三国時代の命題となる「荊州争奪」を紹介してきます。三国志演義を元に孫権と劉備のどちらが有利に事を運んだのか着眼してみましょう。
孫権と曹丕が仲良しに
かつて赤壁の戦いで手を結んだ孫権と劉備でしたが、荊州争奪でライバルとなります。そして、孫権が取った策は曹操の跡継ぎ、曹丕と仲良くなることでした。曹丕を正式な魏の初代皇帝と認めることで孫権は「呉王」に任命されました。
つまり、名目上は魏の国の一部となったのです。呉王というと国のトップに思えますが、古代中国では「皇帝」の下に複数の「王」がいました。王は徴税権など一定の権力を与えられますが、皇帝よりランクは下です。
曹丕の性格を読み取り、皇帝から呉王に任命されるという形をとることで孫権は曹丕と手を結んだのです。こうして北から攻められる心配のなくなった孫権は心置きなく劉備と戦う手はずが整いました。
劉備、曹丕に嫌われる
さて、トップの考えは同じもので劉備も曹操が亡くなったとき魏に使者を派遣します。こうした有力者の葬儀で敵の様子を探るために弔問することは中国でよくある政治手法でした。その使者が「韓冉」です。
しかし、曹丕は劉備の狙いを見抜き、使者の首を取るよう荊州刺史にミッションを与えます。韓冉はどこでその情報を得たのか知りませんが、手前の上庸で待機。病気と偽り、劉備のしたためた手紙だけを送ります。
やがて曹丕からの手紙だけが劉備の下に戻ってきます。すると大臣のすすめもあって、劉備は蜀で「皇帝」を名乗るのです。ここで事件が起きます。
武将・張飛が部下に裏切りにより殺されてしまうのです。
彼らは張飛の亡骸をかついで東の呉王・孫権の元へ逃亡。きっと劉備と相対する孫権の元へ駆けつければ、歓迎されると思ったのでしょう。こうして張飛は意外な展開で他界します。
「桃園の契り」を交わした間柄だっただけに劉備の哀しみは相当なものでした。
劉備、怒りの進撃!
すると劉備は怒り狂い、呉へと攻め入ります。呉から言わせれば、勝手に部下が張飛の遺体を持って逃亡してきた上に攻めてきたのですから、いい迷惑です。自分の部下ぐらい自分で管理するべきだと孫権は思ったかもしれません。
当時の劉備の勢いは凄まじく荊州の近くにある呉の本拠地まで攻め込みます。そのとき荊州は完全に孫権の支配下でしたから、劉備の勢いの良さが分かるでしょう。しかし、呉王もだまってはいません。
配下の陸遜がフェニックスのごとく火を使ってアタックを開始。頭脳明晰な陸遜の策によって劉備は敗走します。かの白帝城まで引き戻され、疲れ切った劉備は孫権と仲直りします。
劉備はこの後、病に倒れ2年もの歳月を白帝城で過ごすこととなります。そのため白帝城には劉備にまつわる遺跡も残され、現在も三国時代の面影を残している場所。そして、劉備は諸葛亮孔明ら配下を招き、遺言を残すのです。
「漢中王」と名乗ってから、わずか10年で劉備は天に召されます。実質的に後を継いだのは軍師・諸葛亮孔明。こうして荊州は再び孫権のものとなるのでした。
三国志ライター 上海くじらの独り言
最終的に荊州は孫権が手にすることとなりました。呉は三国の中でも最も長く存命した国家で策に通じていたことがわかります。
きっと猪突猛進な孫権を周瑜や陸遜がなだめていたのでしょう。こうした絶妙なバランスが取れていたために長く国として存続できたのです。
なお、荊州争奪をオマージュした映画「SHADOW/影武者」が2019年9月に公開予定。派手なアクションシーンが見事で邦画とはひと味違った撮影方法です。この記事で荊州争奪に興味が湧いた読者は映画館に足を運んでみるといいでしょう。
参考文献:「三国演義(中国語版)」羅貫中、「交通旅遊中国地図冊(中国語版)」湖南地図出版社
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