正史三国志を書いたのは、西晋の陳寿(ちんじゅ)である事は有名ですが、
その三国志を多くの史料を駆使して補足して、魅力のある物語にしたのが
東晋末から宋初の裴松之(はいしょうし)である事は、あまり知られていません。
実は、彼の補足こそ、三国志を面白くしたと言っても過言ではないのです。
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裴松之は、陳寿の死後、80年位してから生まれた
裴松之(372~451)は、字を世期(せいき)と言います。
東晋の官僚、裴珪(はいけい)の息子で、先祖の裴微(はいび)は
魏に仕えていたようです。
8歳にして、「論語」や「毛詩」の内容に通じた秀才でしたが、
それをひけらかざす身なりはいつも質素であるという
典型的な儒者の居住まいでした。
西暦391年の殿中(でんちゅう)将軍より立身して、
以来、東晋の官僚を歴任します。
そして、405年、33歳の時には、
尚書祠部郎(しょうしょぎぶろう)になっていました。
裴松之の性格が分かる逸話
裴松之が尚書祠部郎になった頃、東晋では各地に先祖の功績を称える碑を
建立する事が大流行していました。
しかし、それらの碑は、極端に先祖の功績を美化し、捏造したものだらけで
これがそのまま伝わると、後の歴史が誤って伝わる危険がありました。
そこで、裴松之は、上奏し、碑の乱立を禁止すると同時に、
内容については、必ず国家の検閲が入るようにしたのです。
これにより、碑の建立は減少しました。
裴松之「んなこと言ったってオメェよお、嘘書いたらアカンだろォ?」
裴松之は、このように歴史の捏造に敏感な人だったのです。
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西暦429年、三国志に注釈を入れる仕事に就く
西暦429年、東晋を倒した、宋の3代皇帝の文帝は、
学問を振興した名君として有名でした。
この文帝は、陳寿の三国志も読んだらしく、こんな感想を持ちます。
文帝「うーん、面白くはあるけど、さっぱりし過ぎてるな、
それとさ、ちょっと内容薄くね?コレ」
裴松之「任せてくだせェ、、俺っちが、もっと面白いビーム
じゃねえ、、歴史書に造り変えてみせまさぁ」
こうして、裴松之はドスの利いた声を響かせ、
陳寿の正史三国志を再編集する編集長の仕事を
請け負う事になります、オガッ!!
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