張飛は蜀(221年~263年)の将軍です。活躍時期が後漢(25年~220年)に集中しているので、正しくは後漢の将軍が正しいと思います。
さて、今回は正史『三国志』の張飛の事績に関して紹介したいと思います。
長阪橋の戦い
建安13(208年)年に荊州の長官の劉表が亡くなり、子の劉琮が後を継ぎました。
ところが、劉琮はすぐに曹操に降伏しました。当時、劉表のもとに身を寄せていた劉備(りゅうび)はすぐに逃げましたが、間もなく曹操に追いつかれて惨敗しました。
この時に奮戦したのが張飛です。張飛は20騎だけで長阪橋に立ちふさがり、曹操軍を見事に防いで劉備を逃がすことに成功します。この話はてっきり、小説『三国志演義』の創作かと思ったら事実だったのですね。
張飛 ロ〇コン疑惑!?
建安5年(200年)に夏侯覇の従姉妹が郷里で薪拾いをしていたところ、偶然通りかかった張飛に捕まりました。
夏侯覇は後年に蜀に降伏する夏侯淵の子です。ちなみに、捕まった従姉妹は当時13~14歳です。
張飛がやったことは明らかに誘拐の上に、しかもロ〇コンです。その後、捕まった女の子との間に女の子が誕生しました。敬愛皇后と言い、劉禅に嫁ぎました。
後年に蜀に降伏した夏侯覇に対して、劉禅は息子を指さして「息子は夏侯氏の甥なんですよ」と言った話が残されています。
名士を大切にする張飛
さて、史実の張飛で最も驚く話は名士を大切にしていたことです。名士とは知識階級の人を指します。張飛ファンにとっては、ピンと来ない話です。有名な話が残っています。蜀に劉巴という知識人がいました。
張飛は前から劉巴の噂を知っていたので、ぜひ一緒に食事をしたいと彼に誘いを掛けました。ところが劉巴は張飛に対して何もしゃべらないで、ずっと黙っていました。
頭にきた張飛は劉巴と親しい諸葛亮に訴えました。諸葛亮が劉巴に注意しますが、彼は驚きの言葉を返します。
「立派な男は英雄と交わるべきです。なんで兵隊野郎と語り合う必要がありますか?」
劉巴は慎み深い性格で通っていたのですが、知識人としてのプライドはかなり高い人物だったようです。この返答は庶民出身の張飛に対して侮蔑の意味を持っています。
下っ端には容赦しない張飛
張飛は劉巴のような知識人には、ペコペコ頭を下げますが自分よりも下の位の人間には容赦しなかったようです。どう考えても、これは張飛の生まれに対してのコンプレックスではないかと思います。
だが、これは彼の首を絞めることになります。張飛は章武元年(221年)に部下の手により殺されました。劉備は以前から張飛が部下に暴力を振るっていることを何度も注意しました。
しかし、張飛は劉備の言葉でも改めてくれませんでした。張飛が死んだ時に、劉備は張飛の都督(部隊の事務長)から書簡が届いた時に「ああ、張飛が死んだか・・・・・・」と言ったそうです。
この理由は正史『三国志』も北宋(960年~1127年)の司馬光が執筆した『資治通鑑』も何も語っていません。ところが、元(1271年~1368年)の時代に『資治通鑑』に注釈をした胡三省という人物が次の考察をしました。
文書は将軍から送られるものであり、それが将軍を飛び越えて、都督から直接来たから将軍(張飛)が死んだと察した、と。
三国志ライター 晃の独り言
以上が正史『三国志』の張飛にまつわる記事でした。張飛は小説『三国志演義』の影響により、酒豪のおとぼけキャラクターの印象が強いですが、正史にはそのような記述は全くありません。
民間伝承の影響が強いようです。
※参考文献
・高島俊夫『三国志 「人物縦横断」』(初出1994年 のち『三国志 きらめく群像』ちくま学芸文庫 2000年に改題)
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