夏侯覇と姜維は共に強国・魏に籍を置いていながら、弱小化まっしぐらだった蜀へ鞍替え・活躍した将軍です。
しかし、演義におけるラストヒーローとして華やかに描かれる姜維と異なり、夏侯覇は「夏侯淵の息子」程度の扱いにとどまっていますが、これには両者の間にある、いくつかの相違点が影響しているのです。
この記事の目次
夏侯覇と姜維の共通点1 身の危険からの緊急避難的亡命
夏侯覇が魏を見限った理由は司馬一族による、曹・夏侯両家への粛清から我が身を守るため。
姜維にしても諸葛亮の北伐にビビった上官から内通を疑われ、城から締め出しを食らったため、やむなく降伏したにすぎません。
結局魏は司馬氏に乗っ取られることになりますし、帰る城が無い状態で諸葛亮を相手にしても死あるのみですから、両者が命を守るべく下した判断は正しかったと言えます。
夏侯覇と姜維の共通点2 蜀への鞍替え後の重用
劉禅の妃が親戚という強いコネを持っていた夏侯覇は、たちまち重用され車騎将軍の地位まで上り詰めます。
一方、投降した諸葛亮に才を認められた姜維は麾下に侍り軍功を積み上げ、最終的には夏侯覇をしのぐ大将軍の地位に。
コネと実力という方法の違いこそあれ、両者は揃って蜀の重臣として、侵略してくる魏の大きな障壁となるのです。
夏侯覇と姜維の違うところ1 魏国内での立場と将来性
夏侯覇の出自は魏国きっての名門である夏侯一族、文武両道の秀才として将来を期待されていた貴公子であり、亡命時には右将軍を経て、蜀に対峙する総司令官の地位に就いてました。
夏侯覇の鞍替えは、プロ野球に例えるならFA権の行使によるトレードのようなもの、ある程度の地位が用意されることは既成事実だったとすらと言えます。
一方の姜維は、「天水の四姓」と称される地元で幅を利かせていた豪族出身ですが、人材豊富な魏にあってはしょせん地方官吏どまりの家柄、弱小国である蜀に移籍しても出世できるとは限らない状況でした。実力で這い上がるしかない状況だった中、
諸葛亮を師と仰ぎメキメキ頭角を現していく姜維の姿が、家柄の良さとコネでのし上がったように映る夏侯覇より、小説・演義で派手に描かれるのは致し方ないことかも知れません。
夏侯覇と姜維の違うところ2 最後のドラマティック性
三国屈指の名家の出である夏侯覇と地方豪族の息子に過ぎない姜維との、決定的な違いはそれぞれの最後、つまり「死に様」の差でしょう。
亡命後ほどなく蜀の重臣になり、255年には軍の中枢にいた姜維に従い、魏の王経を散々に打ち負かしたとされる夏侯覇ですが、派手に描かれているのはここまで。
その後は演義でも正史でもほとんど登場する機会がなく、蜀漢が劉禅の降伏で滅亡する前の時点で既にこの世を去っており、いつどのような最期を遂げたのかすらわかりません。
一方の姜維はと言えば、劉禅降伏の方を聞き一旦剣を収めるものの諦めきれず、魏へ叛意を抱いていた鍾会をそそのかし独立させ、その後彼を殺害し蜀を再興させるという、とんでもない計画を実行することになります。
結局、計画は失敗に終わり姜維と鍾会は妻子とともに処刑されましたが、蜀への忠心を最後まで貫き華々しく散った彼の「死に様」は、地味な夏侯覇のフェードアウトと違いスターぞろいの三国志の中でも、ひときわ派手に描写されることになったのです。
夏侯覇・生没年不詳、姜維・享年63。
三国志ライター酒仙タヌキの独り言
同じ魏から鞍替え組でありながら主役級の活躍を見せる姜維と違い、全くもって目立たない存在でしかなかった夏侯覇。
演義では長坂の戦いで張飛に一喝されビビり、失神して落馬・河へ転落するという情けない姿で登場したり、版本によっては「夏侯傑」という架空武将に差し替えられていることまであります。
しかし、文武に優れた才を持っていたとされる夏侯覇が、もっと長く生き姜維の蜀再興計画に参加することができたなら、もしかしたら計画の趨勢は変わっていたかも知れない…、そう思うのは私だけでしょうか。
▼こちらもどうぞ
夏侯覇(かこうは)ってどんな人?夏侯淵の息子でもあり蜀に亡命した勇将