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[関羽の称号]漢寿亭侯: 三国志の英雄の栄誉とは?

2023年9月12日


曹操からプレゼントを貰う関羽

 

西暦200年、劉備(りゅうび)曹操(そうそう)との戦いに敗れて逃走した際、

弟分の関羽(かんう)は劉備と離ればなれになってしまい、曹操に降伏しました。

曹操に厚遇されて一将として取り立てられた関羽。

曹操と袁紹(えんしょう)との戦いにおいて先鋒となって戦い、

袁紹軍の大将・顔良(がんりょう)を斬りました。

 

曹操はこの功を賞して関羽を漢寿亭侯(かんじゅていこう)に奉じました。

関羽が曹操からのご褒美(ほうび)を何気なく受け取ったようなこのエピソード、

三国志演義の古い版本では、

関羽が曹操からのご褒美を拒絶した美談に仕立てられています。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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吉川英治『三国志』にもある美談

吉川英治『三国志』にもある美談

 

正史三国志でも、三国志演義のメジャーな版本のものでも、

関羽は何の抵抗もなく漢寿亭侯の爵位を受けています。

三国志演義の古い版本のものと、吉川英治さんの『三国志』では、

関羽は官印を受けるのをいったん拒んでいます。

吉川英治さんの『三国志』にどう書いてあるか見てみましょう。

 

関羽が、顔良を討ってから、曹操が彼を重んじることも、また昨日の比ではない。

「何としても、関羽の身をわが帷幕(いばく)から離すことはできない」

いよいよ誓って、彼の勲功を帝に奏し、わざわざ朝廷の鋳工(ちゅうこう)

封侯(ほうこう)の印を()させた。

それが出来上ると、彼は張遼(ちょうりょう)を使いとして、特に、関羽の手許へ持たせてやった。

「……これを、それがしに賜わるのですか」

関羽は一応、恩誼を謝したが、受けるともなく、印面の文を見ていた。

寿亭侯之印(じゅていこうのいん)と、ある。

すなわち寿亭侯に封ずという辞令である。

「お返しいたそう。お持ち帰りください」

「お受けにならんのか」

「芳誼(ほうぎ)はかたじけのうござるが」

「どうして?」

「ともあれ、これは……」

なんと説いても、関羽は受け取らない。張遼はぜひなく持ち帰って、ありのまま復命した。

曹操は、考えこんでいたが、

「印を見ぬうちに断ったか。印文を見てから辞退したのか」

「見ておりました。印の五文字をじっと……」

「では、予のあやまりであった」

曹操は、何か気づいたらしく、早速、鋳工を呼んで、印を改鋳させた。

改めてできてきた印面には、漢の一字がふえていた。

――漢寿亭侯之印(かんじゅていこうのいん)――と六文字になっていた。

ふたたびそれを張遼に持たせてやると、関羽は見て、呵々(かか)と笑った。

「丞相は実によくそれがしの心事を知っておられる。

もしそれがし風情(ふぜい)の如く、ともに臣道の実を践む人だったら、

われらとも、よい義兄弟になれたろうに」

そういって、こんどは快く、印綬を受けた。

 

 

関羽は心は劉備のもとにありながらやむを得ず曹操に降伏したのであって、

曹操からのご褒美を喜々として受けるわけにはいかない。

でも官印の最初に「漢の」と書いてあれば、それは曹操からのご褒美ではなく

漢王室からのご褒美であるから心置きなく受け取れる。

こういう関羽流の筋の通し方が美談となっております。

 

また、そんな関羽の考え方を察して

「漢」の一文字を加えてあげた曹操もナイス!ということで、

ますます美談なわけであります。

 

kawa註

 

漢寿亭侯の史実の話については、こちらもどうぞ!

吉川三国志にも劣らない!曹操が関羽を漢寿亭侯に任命した理由が粋すぎる!

 

 

 

メジャーな版本・毛宗崗本でカットされた

 

この美談は、吉川英治さんが参照していた『通俗三国志(つうぞくさんごくし)』には入っていますが、

現在メジャーな三国志演義の版本である毛宗崗本(もうそうこうぼん)にはありません。

『通俗三国志』は三国志演義の古い版本のうちの李卓吾本(りたくごぼん)というものの日本語訳で、

毛宗崗本は、その李卓吾本よりも新しい版本です。

毛宗崗本を作った毛さんは、古い版本にある「漢の寿亭侯」の話をカットしたのです。

 

 

美談がカットされた理由

 

「寿亭侯」の印はもらえないけど「漢の寿亭侯」ならもらえる、という態度は

関羽の一途(いちず)さが表れている素敵なエピソードだと思うのですが、

なぜカットされたのでしょうか。

毛宗崗本には下記のような注釈がついています。

 

漢寿地名、亭侯爵名。俗本此処多訛。今依古本削去。

(漢寿は地名、亭侯は爵名。俗本はこのところ多く(あやま)る。いま古本によりて削り去る)

 

なるほどー、漢寿は地名ですか。「寿亭侯」じゃないんですね。漢寿の亭侯!

ううむ、毛宗崗本、正確さはアップしているが面白さがダウンしてしまっている……。

 

 

虚構から生まれたニセ官印の話

玉璽

 

コーエーが出版している『三国志平話

(二階堂義弘/中川諭 訳注 1999年3月5日)を読んでいたら、

121ページ~の脚注に面白い情報が載っていました。

洪邁(こうまい)の『容斎四筆』巻八に、「寿亭侯」のニセ官印の話が書かれているそうです。

そこで紹介されている官印は四つ。

 

1.荊門の玉泉の関帝廟にある大きな寿亭侯印。

漁師が拾って、関羽の印に違いないと考えて廟に奉納したもの。

2.復州の宝相院で木を伐った時に土の中から出てきて、左蔵庫に保管されているもの。

「漢建安二十年寿亭侯印」と刻まれている。

3.邵州の黄沃という人が郡の張氏から購入したもの。「漢建安二十年寿亭侯印」と刻まれている。

4.嘉興の王仲言が持っているもの

 

これについて、洪邁は「漢寿は地名なんだから漢の文字が削られているのはおかしい」

「漢代の印にしてはサイズが大きすぎる」「侯印は一つしかないはずなのに四つもあるのはおかしい」

「関羽が漢寿亭侯に奉じられたのは建安二十年ではない」と指摘し、このように言っています。

 

後人(これ)(つく)りて以て廟に奉じて祭り、其の数必ず多し。

人間(じんかん)に流落するは()くの如きなり。

 

クスッと笑ってしまうエッセーのようにも見えますが、

『容斎四筆』は真面目な本のようなので、

洪邁さんは真面目に嘆いていたのでしょうね。

 

 

三国志ライター よかミカンの独り言

三国志ライター よかミカンの独り言

 

漢の寿亭侯、というのは地名を勘違いした荒唐無稽(こうとうむけい)エピソードなのですが、

それを元にしてニセ官印がいくつも作られているところを見ると、

このエピソードが人々に愛されていた様子がよく分かります。

考証的には間違いでも、お話として面白ければ残しておいてくれても

よかったんじゃないかな、という気がいたします。

 

三国志演義に考証を持ち込んだらきりがありませんからねぇ。

荒唐無稽要素を徹底的にカットしようと思ったら、

三国志演義の作品世界はきっと崩壊しますよ……。

 

▼こちらもどうぞ

于禁と共に関羽に降伏した浩周と東里袞のその後とは?

 

 

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よかミカン

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三国志好きが高じて会社を辞めて中国に留学したことのある夢見がちな成人です。 個人のサイトで三国志のおバカ小説を書いております。 三国志小説『ショッケンひにほゆ』 【劉備も関羽も張飛も出てこない! 三国志 蜀の北伐最前線おバカ日記】 何か一言: 皆様にたくさん三国志を読んで頂きたいという思いから わざとうさんくさい記事ばかりを書いています。 妄想は妄想、偏見は偏見、とはっきり分かるように書くことが私の良心です。 読んで下さった方が こんなわけないだろうと思ってつい三国志を読み返してしまうような記事を書きたいです!

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