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[解明]曹丕陰湿説は偽り!実は優しく兄弟想いの皇帝


皇帝に就任した曹丕

 

曹丕(そうひ)((220年~265年)の初代皇帝です。文帝(ぶんてい)とも言われていますが、曹丕(そうひ)が有名なのでこの記事では曹丕で通します。

 

曹丕にバカにされて嫌な気分な王忠

 

曹丕は性格が悪いと言われています。

しかしそれは、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』やゲームの創作です。

 

陳羣と曹丕

 

実際の曹丕(そうひ)は優しくて、またユニークな一面も持っています。

そこで今回は史実(しじつ)曹丕の性格について紹介します。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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お兄さんの敵討ちをする曹丕

曹操と張繍

 

建安(けんあん)2年(197年)に曹操(そうそう)張繍(ちょうしゅう)を攻めますが、張繍(ちょうしゅう)はあっさりと降伏しました。

一兵も損なわなかったので、曹操(そうそう)はほっとしました。

 

賈詡と曹操と張繍

 

ところが、これは張繍(ちょうしゅう)の罠でした。張繍は曹操が油断しているところを襲撃しました。

この戦で曹操の長子の曹昴(そうこう)と甥の曹安民(そうあんみん)、部下の典韋(てんい)を失いました。

 

曹昴

 

とくに曹昴(そうこう)は曹操を逃がすために、自身の馬まで譲って戦死するという最期でした。曹操にとっては苦い敗戦となりました。

張繍(ちょうしゅう)はその後も曹操を苦しめますが、建安5年(200年)に自ら降伏しました。

 

曹操

 

今度の降伏は本当でした。曹操は昔の恨みは忘れて、張繍に自分の娘を嫁がせて手厚くもてなしました。

 

残忍な曹丕

 

しかし、許さなかったのは曹丕(そうひ)でした。

 

ある日、張繍は頼み事があって曹丕に会いに行きました。すると、曹丕は「お前は私の兄を殺したのになぜ会える!」と激怒したのです。

曹丕からの報復を恐れた張繍は、精神的に参ってしまい自殺に追い込まれました。

 

曹昴

 

曹丕と戦死した曹昴は腹違いの兄弟です。

だが、ここまで激怒するとは曹丕にとってはよいお兄さんだったのでしょう。

 

 

 

型破りな性格をしていた曹丕

曹丕

 

曹丕は型破りな性格もあったようです。その典型的な逸話を紹介します。

曹丕が皇太子時代の話です。ただし、正確な時期は不明です。

 

甄氏(しんし)

 

部下と一緒に酒を飲んで楽しんでいる時に曹丕は突然、「みんなに挨拶をしろ」とある人物を呼びました。

それは曹丕の妻の(しん)夫人でした。

 

現代人の感覚では信じられないかもしれませんが、昔の中国では妻を人前に出すなんてとんでもないことだったのです。

 

孔融と禰衡

 

簡単に言えば、全裸で出すのと一緒の感覚です。

 

「晃、不謹慎な発言があったから。お前は謝罪とお詫びをしろ!」

いや、読者の皆さんはそう思うかもしれませんけど、これは本当なんです。

 

この時、周囲のほとんどの部下が「キャー!」と目を伏せたのです。

将来の皇后を勝手に見るわけにはいきませんから。

 

ただし、劉禎(りゅうてい)という人だけが見ていたらしいです。

 

苛ついている曹操

 

この話を聞いた曹操は大変激怒して、劉禎(りゅうてい)を肉体労働の刑にしたそうです。

なぜ、曹丕がこんな事をしたのかと言いますと、曹丕は昔からの慣習が好きではなかったようです。

だから、平気な顔で破ったらしいです。

 

 

冷静に物事を見つめる曹丕

曹沖

 

建安13年(208年)に異母弟の曹沖(そうちゅう)がわずか13歳で亡くなりました。

 

曹沖が亡くなり悲しむ曹操

 

曹操は息子の中で曹冲(そうちゅう)を可愛がっていました。

亡くなった時も、曹丕に向かって「わしにとっては悲しいがお前にとっては嬉しいだろう」ときついことを言いました。

 

曹操と曹丕

 

その後、曹操は亡くなり曹丕が皇帝になりました。

皇帝になった曹丕は後に語っていました。(翻訳は現代の人に分かりやすくしています)

 

「曹昴は皇帝になるには限界があった。しかし、曹冲が生きていたら今の私はいなかった」

 

先述したように曹昴は曹丕が好いていた兄でした。だが、皇帝の器という点では曹丕は疑問視していたようです。やはり優しいという点ではトップに向かないとみていたのでしょう。

 

孟達に恋文を送る曹丕

 

その点、曹冲は自分には無い何かがあると曹丕は見ていたのかもしれません。

 

 

三国志ライター 晃の独り言

三国志ライター 晃

 

以上が曹丕の性格に関しての記事でした。

 

後継者争いで喧嘩する曹丕と曹植

 

曹丕が冷酷という最大の原因は弟の曹植(そうしょく)との対立でしょう。

 

後継者争いをしている曹丕と曹植

 

しかし、これも『三国志演義(さんごくしえんぎ)』の創作が多いのです。

詳細はいつか書こうと思います。

 

※参考

・高島俊夫『三国志 「人物縦横断」』(初出1994年 のち『三国志 きらめく群像 (ちくま文庫)』2000年に改題)

 

▼こちらもどうぞ

曹休と曹丕の関係性は?本当に仲がよかったの?

 

 

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晃(あきら)

晃(あきら)

横山光輝の『三国志』を読んで中国史にはまり、大学では三国志を研究するはずだったのになぜか宋代(北宋・南宋)というマニアックな時代に手を染めて、好きになってしまった男です。悪人と呼ばれる政治家は大好きです。
         好きな歴史人物:
秦檜(しんかい)、韓侂冑(かんたくちゅう)、 史弥遠(しびえん)、賈似道(かじどう) ※南宋の専権宰相と呼ばれた4人です。
何か一言: なるべく面白い記事を書くように頑張ります。

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