劉備が諸葛亮を自分の幕僚に加えるために彼の家を三度も訪問したという三顧の礼。「三顧の礼はなかった!」とする説がございます。あったとしても、「三」というのは実数じゃなくて、「何度も」っていう意味なのでは……。本日は、劉備は諸葛亮を三度も訪問していないという疑惑。
三顧の礼の記述
三顧の礼は、正史三国志諸葛亮伝に書かれています。こんな記述です。
先主(劉備)は新野に駐屯していた。徐庶が先主に会うと、先主は徐庶を逸材であると
思った。徐庶は先主に言った。
「諸葛孔明は臥(ねむ)れる龍です。お会いになりたくありませんか?」
先主「君が連れてきてくれ」
徐庶「この人に会いに行くことはできても呼びつけることはできません。
ご自身で訪問なさるのがよろしいでしょう」
そこで先主は諸葛亮を訪問し、およそ三度の訪問で会うことができた。
このあと、劉備が憂国の志を述べ、諸葛亮が天下三分の計を献策する文言が続けて書かれています。「およそ三度の訪問で」とあるから、実際三回ぐらいは足を運んだっぽいですよね。
諸葛亮伝に「およそ三度の訪問」とあるのになぜ疑う?
正史三国志にバッチリ書かれているのに、なぜ「三顧の礼はなかった」という説があるのでしょうか。それは、正史の諸葛亮伝の注釈に引用されている『魏略』に次のような記述があるためです。
劉備は樊城にいた。このとき曹公(曹操)は河北を平定したところだった。
諸葛亮は荊州が次の標的になることを悟ったが、(荊州牧の)劉表は緩慢な人で、
軍事に明るくなかった。そこで諸葛亮は北に渡り、劉備に会いに行った。
劉備は諸葛亮とは知り合いでもなく、諸葛亮の年も若いため、書生の待遇で応対した。
会見の場が散会となり、賓客たちはみな帰ったが、諸葛亮だけはその場に残っていた。
劉備は何か言いたいことがあるのかと尋ねることもしなかった。
劉備は毛飾りを作るのが好きであったが、この時たまたま髦牛の尾を劉備にくれる人があったので、
劉備はそれを結び合わせて毛飾りを作っていた。諸葛亮が進み出て言った。
「将軍には遠大な志がおありですのに、毛飾りを結ぶしか能がないのですかな」
劉備は諸葛亮がただ者ではないことに気づき、毛飾りを投げ捨てて言った。
「何を言うか。これはただの手慰みだ」
このあと、諸葛亮は劉備に「あなたの能力は曹操と比べてどうですか?」「能力で劣っているうえに兵も数千人に過ぎない。これで曹操軍を迎えるのは無謀ではないですか?」と意地悪質問をして、劉備に「そこ、オイラも心配してんだよ~。ど、どうすりゃいい?」と言わせてからおもむろに兵力増強の方法を献策し、劉備の信任を得るようになったというのが、『魏略』の記述です。これだと、諸葛亮は押しかけ女房みたいな感じで、劉備から三度も訪問したという三顧の礼とは真逆です。さて、三顧の礼はあったのか、なかったのか……。
裴松之の反論「出師の表に書いてある!」
正史三国志に注釈をつけた裴松之は、『魏略』の引用文のあとに次のように反論しています。
諸葛亮の表文(出師の表)にはこう書かれている。
「先帝は私を卑鄙な者とさげすまず、恐れ多くも御自ら私の草庵を三度もご訪問下さり、
天下のことを諮問なさいました」
つまり諸葛亮から劉備を訪ねたのではないことは明らかである。(裴松之の考察)
ちなみに、裴松之の注に、『魏略』と同じ話が『九州春秋』にもあると書いてありますが、『九州春秋』は晋の司馬彪の著作だと言われていますので、魏に仕えた魚豢が書いたと伝えられる『魏略』を後代の司馬彪が参照したのかな、って感じで、『魏略』の説が当時メジャーだったという根拠にはなりません。三顧の礼は、やっぱりあったっぽい……?
諸葛亮が自らを飾るために作った作り話かも?
ベテランで高名な劉備が何の実績もない青年をいきなり三度も訪問するなんて不自然ですので、諸葛亮から話したいことがあって劉備に会いに行ったけど最初は相手にされなくて……という『魏略』のほうがリアリティはあります。しかし、『魏略』は魏に仕えた魚豢という人が書いたと言われている本なので、蜀の功臣に関する記述で、蜀にいた人たちの間で伝わっていた話を蜀の人である陳寿が綴った正史三国志のほうが、断然信憑性があります。
ただ、三顧の礼って、話がきれいにできすぎていて、なんだか作り話くさいんですよね……。君主が賢人を求める時に、田舎者の賢人がさんざん待たせたのに君主は怒らず気長に待って、あぁなんと徳のある君主であろう、そして、その方がさんざん待ってまで手に入れたその賢者はさぞかし優れた人物に違いない、みたいな話って、周の文王が太公望・呂尚を招聘した話のパターンですよね。正史三国志の劉備は、待たされた描写はありませんが、三度も足を運ぶっていうのは待たされたに等しい桁外れな手間です。三顧の礼、文王と呂尚のパクリくさいっす。劉備は文王のような明君、諸葛亮は呂尚のような賢者、って言いたくてパクったのでは……。
諸葛亮の「出師の表」に「私の草庵を三度もご訪問下さり」とあるからには、諸葛亮が自分の過去のことを間違えるはずがないので本当に三回訪問を受けたんだろう、って裴松之は考えているようですが、「出師の表」の記述を鵜呑みにすることはできません。「出師の表」は諸葛亮が都を留守にする時に、皇帝・劉禅に「俺がいない間も俺の子分たちの言うことをしっかり聞いとけ」と圧力をかけるための文章ですから、自分が先帝から特別な待遇を受けた重臣であることをアピールするために自分の過去を飾ることは充分ありえます。
諸葛亮のそういう修辞法の例が、正史三国志諸葛亮伝に引用されている『諸葛亮集』の「正議」とい文章にあります。そこでは、諸葛亮は “魏の連中は徳によって行動しているわけじゃないから自滅するんや”と言うために、むかし項羽は徳によらずに行動したため最後は釜ゆでにされた、という例をあげていますが、項羽の最期が釜ゆでだったというのは、『史記』や『漢書』の記述と異なっています。『史記』『漢書』では自ら首を刎ねたんですよね。
諸葛亮が『史記』『漢書』を読んでいなかったはずはありませんが、項羽が釜ゆでになったという民間伝承でもあったのでしょうか。とにかく、あえて『史記』『漢書』を封印し、釜ゆでというショッキングな最期を「正議」に書いて、蜀の国威発揚に利用した諸葛亮。目的のためには事実と異なることでも表文に書きかねない人だとは思いませんか。「出師の表」に「私の草庵を三度もご訪問下さり」とあるからといって、三顧の礼があったとする根拠には足りません。
三国志ライター よかミカンの独り言
実際、三顧の礼があったかどうかは分かりませんね。諸葛亮の庵跡が発掘されて、そこに劉備の毛髪が残っていることがDNA鑑定で分かった、とかいうことでもない限り、結論は出ないのではないでしょうか。まあ常識的に考えれば、魏の人が書いた『魏略』より蜀の陳寿が書いた『三国志』のほうが信憑性あるんですけれども……。
しかしもし陳寿が諸葛亮をリスペクトしすぎて筆が狂っていたとしたら……。陳寿の筆がどうもあやしい、という話題は、こちらの過去記事をご覧下さい↓
ちなみに、「三顧の礼」の「三」は、実数じゃない可能性が高いと思います。古代中国のものの数え方として、「一つ、二つ、たくさん」という発想があります。「三」=みっつ、じゃなくて、「三」=いっぱい、です。大軍のことを「三軍」と表現しますよね。「出師の表」で諸葛亮が「私の草庵を三度もご訪問下さり」と書いたのは、何度も何度も足を運んで下さいました、って言いたかっただけで、三回来たっていう意味じゃないと思います!
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