公孫瓚といえば、漢化した異民族騎兵を直轄部隊にした白馬義従で有名です。彼の軍勢は精強で烏桓族も公孫瓚の声を聴くと、大人しくなった程でした。しかし、皮肉な事に彼の軍勢には、致命的な欠陥も含まれていて、その為に袁紹の前に砕け散る運命を辿ったのです。
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ローカル群雄公孫瓚は官の力を否定し続けた
公孫瓚と劉備や曹操、袁紹には勢力の成り立ちに大きな違いがありました。それは、彼が後漢王朝の権威を元に軍勢を構築したわけではない事です。当時の群雄はほぼ例外なく、刺史や牧という地方官で軍事力を行使できるポストを自称するか任命されるかして、その権威を元に勢力を増強しました。
しかし、公孫瓚はそうしませんでした。それは、公孫瓚の低すぎる官位に代表されています。遼東属国長史、琢県令、中郎将、騎都尉、奮武将軍、ざっとこの程度で、奮武将軍というのは雑号将軍で、無名の頃の曹操も自称した称号です。
なにより公孫瓚は生涯刺史にも、牧にも任命されていません。後に劉虞を討った時に献帝より、前将軍、易侯にはされましたが、通常の群雄のように官の威光で兵力をまとめたのではないのです。
戦争の度に兵力を増やした公孫瓚の私兵集団
公孫瓚は、官位に関係なく実力で私兵団を増やしていきました。光和年間に涼州で反乱が起きると、幽州突騎3000人を率いて鎮圧、これは、割符を与えられているので官が募集した騎兵でしょうが、その後、公孫瓚は烏桓を私兵化して数を増やしています。
後に赴任した劉虞と烏桓族の扱いで揉めた頃には、公孫瓚は歩騎万人を保有し、右北平に駐屯しています。この頃の公孫瓚の官位は中郎将に過ぎません。劉虞が兵力を与えたとも書かれていないので、恐らく自前です。完全に公孫瓚と個人的な紐帯で結ばれた私兵団でしょう。
191年には、青州と徐州の黄巾賊が渤海を侵して黒山賊と合流しようとし公孫瓚はこれを阻止して大破していますが、この頃は兵力歩騎二万になり以前の倍に増えています。急速な勢力拡大と言っていいでしょう。この力を使い、公孫瓚は上官の劉虞を倒して官位に関係なく軍事力で、幽州、冀州、青州、徐州に君臨して最盛期を迎えるのです。
地方豪族を無視し、袁紹に敗れた公孫瓚
広大な範囲を支配下においた公孫瓚ですが、ここでも彼は、他の群雄とは一線を画する独特の統治法を採用します。劉備にしろ、曹操にしろ、袁紹にしろ、彼らは支配地の豪族を厚遇して自軍の勢力に組み込む事を例外なくやっていますが、公孫瓚は、地方豪族を弾圧して徹底排除していきました。
一方で非豪族で異民族との交易で富をもたらす商人や占い師は厚遇しました。英雄記には、この辺りの事情について、「豪族連中は自分が出世してポストを得るのを当然と思っているから引き立てても恩義を感じはすまい?」と公孫瓚が語ったとしています。
これが正しければ、公孫瓚はほとんど豪族を憎んでいると言えます。しかし、公孫瓚の態度は非常にまずいものでした。それは、事実上地方を治めているのは、このような地方豪族だからです。彼らを締め出した為に北方四州の政治と経済は混乱を来す事になります。公孫瓚に迫害された豪族は勢い、名士の代表である袁紹に味方しました。
一時は死に体だった袁紹が息を吹き返したのは、冀州を韓馥から奪い取った事と公孫瓚に弾圧された豪族を積極的に取り込んだからです。公孫瓚により非業の死を迎えた劉虞の息子の劉和を指揮官にして、弔い合戦に出た辺りは巧妙で、袁紹は多くの味方を集めます。劉虞の遺臣も袁紹に付き、公孫瓚は追い詰められたのです。
城は堅くても豪族に叛かれ孤立した公孫瓚に未来は無かった
鮑丘の戦いで公孫瓚は斬首二万人という大敗を喫して易京に逃げ込みます。ここには、三百万石の兵糧が備蓄され、10年籠城できましたが、外からの援軍が期待できない以上、籠城は必ず失敗する運命でした。唯一の味方である袁紹の敵、黒山賊と連携して袁紹を挟撃する策も、伝令が袁紹に捕まり、逆に利用されて伏兵に掛かり大敗します。
以後の公孫瓚は、城に籠って打って出ず、5年の籠城の末に城を落とされて自殺してしまうのです。
三国志ライターkawausoの独り言
公孫瓚の軍団の武力は強力でしたし、彼に付き従うものは寝返らず、最期までついていきました。籠城が5年も続いたのは、彼らの結束の固さを意味しています。しかし、地方豪族を軽んじるという公孫瓚の態度は大量の敵を産みだし最期には自分の首を絞めたのです。
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