曹操といえば漢の皇帝をないがしろにした悪者、諸葛亮といえば先君の恩を忘れず二代目に忠誠を尽くした名臣。
このように正反対のイメージで描かれがちな二人ですが、言動をたどっていくと、案外そっくりなお二人なのではないかと思えてきます。諸葛亮は、曹操になりたかったのかもしれませんよ!
この記事の目次
共通点1:ゴリゴリの法治主義者
徳によるゆるやかな統治が理想とされていた後漢の時代、曹操は徳ではなく法によって世の中を治めようとしました。正史三国志武帝紀に、袁紹がかつて支配していた土地を曹操が統治するようになった時の施策が書かれています。
それによれば、曹操は勢力のある人が勝手に土地や財貨を自分のものにするのを規制する法律を制定し、市民に喜ばれたとあります。徳による統治なら、細かいことは土地の有徳な人士に仕切らせるはずですが、曹操はそのやり方を否定して法治を採ったのです。
曹操と同様に、諸葛亮も法治主義者として知られています。正史三国志諸葛亮伝の末尾にある陳寿の上奏文では、諸葛亮の政治についてこのように述べています。
法令は厳明で、信賞必罰であり、悪事がなければ罰せず、善事がなければ顕彰しなかった。このため官吏はずるいことを受け入れず、人々はみずから励み、道に落ちている物を拾う者はなく、強者が弱者を侵害することもなく、粛然たる教化がいきわたった。
共通点2:廉潔で質素
曹操も諸葛亮も、賄賂とは無縁な廉潔な人物でした。暮らしぶりも質素で、曹操は家族にお香の使用を禁止していますし(『太平御覧』香部一の香)諸葛亮は自分の家族の生活は桑八百株・やせ田一五頃で足りているので余分なものは持たないと言っています(諸葛亮伝にある劉禅への上奏文)。
自分の死後のことについては、二人とも、墓の中にはお宝の類を入れないようにして普通の服装で埋葬しろと指示しています(武帝紀および諸葛亮伝)。
共通点3:皇帝の威光を利用しながら丞相として権勢をふるう
曹操は天下十三州のうちの九州を支配下におさめ、丞相として政治を切り回していましたが、自ら皇帝にはならず、漢の皇帝をトップに戴いていました。実権は自分が握っているのですが、皇帝に位を降りるよう迫ることはしなかったのです。
諸葛亮も蜀の二代目皇帝・劉禅の代には蜀の丞相として政治を一手に握っており、皇帝・劉禅は諸葛亮の言いなりでした。既存の権威を盾にとって自ら権勢を振るうというやり方も、曹操と諸葛亮の共通点です。
いろいろ似ている二人
両者のやり方を見ていると、非常に価値観が似通った二人なのではないかなと思えてきます。曹操は諸葛亮より26歳年上ですから、諸葛亮は曹操のやり方を参考にしたのかもしれませんね。天下をブイブイ言わせている曹操を見て、いいな~、おいらもあんなふうにやってみよっかな、と。
諸葛亮が勝ち組の曹操の配下にならずに流れ者の劉備を操縦して天下に覇を唱えさせることを選んだのは、自分が曹操のようになりたかったからかもしれませんよ!?いや、俺ならもっとうまくやる、ぐらい考えていたかもしれません!
似ている二人の評価が正反対なのはなぜ?
皇帝をないがしろにして権勢を振るったのは曹操も諸葛亮も同じなのに、どうして曹操は悪者扱いをされ、諸葛亮は忠臣と言われてきたのでしょうか。それは、曹操が王朝交替に成功し、諸葛亮は失敗したためです。
曹操は自分では皇帝になりませんでしたが、息子が皇帝になれるよう下準備を進め、息子の代での王朝交替を成功に導いています。曹氏が漢の皇帝を戴いたまま王朝交替できなければ忠臣として讃えられたことでしょうが、成功してしまったために逆臣となったのです。(曹操を悪者とする見方は君主への絶対的な忠誠が強調された宋の時代に定着しました)
諸葛亮は曹操になりたかったのか
曹操と似通った政治手法を用い、丞相として権力を握った諸葛亮。曹操のように王朝交替をしたいと考えていたのでしょうか。これを考える時に参考になるのが、李厳との手紙のやりとりです。
正史三国志李厳伝に付けられている裴松之の注によれば、李厳が諸葛亮に皇帝のシンボルアイテムである九錫を受け王になるようすすめた手紙が『諸葛亮集』に載っていたそうです。九錫を受け王になる、というのは、曹操が息子を皇帝にするための準備として曹操自身がやったことですが、それと同じことを諸葛亮にやれと、李厳は勧めているわけです。それに対して諸葛亮はこう返事したそうです。
現在、賊の討伐の成果は上がっておらず、知遇に報いることもできていないのに、九錫を受けて安穏と高貴の位につくことは、義にはずれます。もし魏を滅ぼし曹叡を斬って、天子を漢の本来の都である洛陽に戻すことができたらなら、みんなと一緒に昇進し、十の特別待遇でも受けましょう。九ぐらいなら当たり前に受け取ります。
魏を滅ぼし曹叡(魏の明帝)を斬り洛陽を奪還したら九錫は受けてもいい、という返事ですね。もしもこれが実現したら、諸葛亮も曹操と同じことになっていたことでしょう。諸葛亮が自らすすんでこうしたいと言ったわけではありませんが、李厳がそれを勧めたということは、蜀にはそれを諸葛亮に勧めるような空気があったということであり、諸葛亮の返事からすると、諸葛亮もまんざらでもなかったのです。
ブラック三国志ライター よかミカンの独り言
以上から、《諸葛亮は曹操になりたかった説》、私が勝手に認定いたします。全く科学的手順をふんでいない妄想記事ですが、三国志を目先を変えて読みたい方には楽しんでいただけたのではないでしょうか。
諸葛亮は忠臣だという先入観があって見れば忠臣に見えますが、そのイメージは簒奪ができなかったという結果から付けられたものであるかもしれません。いろいろ疑いながら読んだら三国志はもっと盛り上がるんじゃないかなーと思うブラック三国志ライターの独り言でした。
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