覇王・曹操も寄る年の波には勝てませんでした。曹操の死がちらつくころになると、子どもたちの脳裏にふと浮かび上がるのは、誰が後継者になるのか?という疑問。
特に、魏の初代皇帝となった曹丕の周りには、どす黒い暗雲が立ち込めていました。『三国志演義』では、病で曹操の葬儀に参列できなかった曹熊を曹丕が咎め、曹丕によって罰せられることを恐れた曹熊が自殺したことが記されています。
また、『世説新語』には次のような有名な逸話が残されています。ある時、曹丕は文才ある弟・曹植に「私が七歩進む間に詩を詠めなければ殺す」と迫った。すると、曹植は兄弟の不仲を嘆く見事な詩を詠み上げた。この詩を聴いて曹丕は心を痛めた。このように、血のつながった兄弟にも容赦が無かったことで有名な曹丕ですが、そんな彼にも親しくしていた兄弟がありました。その人物こそが、曹操が多くの息子たちの中でも特に愛情を注いでいた曹沖でした。
心優しい少年・曹沖
曹沖は優しい心の持ち主で、多くの臣下に心を寄せられていました。曹操も、その人となりを愛し、自分の後継ぎにはぜひ曹沖を立てたいと考えるほどでした。そんな曹沖に関する有名なエピソードを紹介しましょう。
ある日、曹操が倉に保管していた大切な乗り鞍が鼠に食い破られてしまうという事件が起こります。鼠に食い破られることは凶兆であるとされていたことも相俟って、曹操は怒髪天。曹操のただならぬ形相を見た倉番は顔面蒼白。死を覚悟するほどでした。そんな倉番の前に現れたのが心優しい曹沖少年。曹沖は倉番に3日身を潜めるように告げます。その後、曹沖は身に着けていた服に自ら穴を開け、曹操の前でひどく怯えた様子を見せます。
曹操が曹沖の様子を心配してそのわけを尋ねると、曹沖は「世間では鼠に衣服を食い破られると良くないことが起こってしまうと言われているとか…」と泣かんばかり。
曹操は「そんなものはくだらない出鱈目だから大丈夫だ」と慰めました。その後、倉番が曹操の元に現れて自らの罪を打ち明けます。先日曹沖に気にするなと言っていた曹操は、怒り狂っていた自分が馬鹿らしくなり、「子どもが身に着けているものでさえ鼠に食われるのだから、ずっと置きっぱなしの乗り鞍が食い破られても仕方がない」と言って許します。
心優しい曹沖は、理不尽なことで処罰を受けそうになっていた倉番を何とか助けたいと考えたのですね。父・曹操の性格をよく知っていた曹沖だからこそできた計略。また、曹操の曹沖への溺愛ぶりもうかがえ、なんだか微笑ましいですよね。
5歳でアルキメデスの原理を理解
また、曹沖に関してはこんなエピソードも残されています。
ある日、呉の孫権から象が贈られてきます。曹操は象の巨体を見て「重さはいかほどのものなのか」と周囲に尋ねました。しかし、その場にいた者たちは皆閉口してしまいました。
その時、曹沖が口を開きます。「簡単なことです。船を水に浮かべ、象を船に乗せてください。象が乗ると、船が少し沈むでしょう。そうして沈んだ船が水面に接しているところに印をつけます。その後、象を降ろしてやって、先ほどつけた印が水面につくまで船に重しを載せていきます。その重しの重さをはかって合計すれば、象の重さがわかりますよ。」と答えました。
たった5歳の曹沖が、現代貨物船の重量を図る際にも用いられている「ドラフトサーベイ」という喫水検査の方法を進言するとは…!曹沖は、物理学でいうところのアルキメデスの原理をわきまえていたのですね。大人が誰も答えられなかったことを、わずか5歳の曹沖がすらすらと答えたのですから、曹操の曹沖への期待はますます高まったことでしょう。
若くして天に召された神童
仁徳がある上に、その聡明さも抜きんでていた曹沖でしたが、才子多病の言葉通りの少年でした。曹沖はわずか13歳で病死。
あまりの才能に、天が愛しすぎて連れて行ってしまったのかもしれませんね。また、典医であった華佗が曹操によって拷問の末に殺されたことを知り、嘆きのあまり死んでしまったとも言われています。
聡明であるあまり、華佗の死が父・曹操の寿命を縮め、更には世の人々の寿命をも縮めてしまうということを瞬時に悟ってしまったのでしょう。最愛の曹沖を失った曹操は嘆きのあまり、曹沖と仲が良かった曹丕に「心の中では、ほくそ笑んでいるのだろう」などと痛烈な言葉を投げつけます。この言葉に曹丕は何を思ったのか、察するに余りあります。
曹丕は後に「もし曹沖が生きていたら、私は魏の皇帝として天下を治められなかった」と述懐しています。もし、曹沖が皇帝になっていたら、『三国志』の結末はどうなっていたのか。杜牧ではありませんが、『三国志』の「if」を吟じてみるのも、また一興。曹沖皇帝の幻を追ってみるのも悪くないでしょう。
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